「何事も嘘があっては失敗する」
この事例から、梅岩は次のように結論を出す。
世間の人は賢いように見えて、実際には「実の道」(物事の本質)まで学んではいないから、自分が犯している過ちが増えているのがわからない。そのあたりのことをよく考えてみれば、何事も嘘があっては失敗するということに気づくはずだ。
たとえば、煙草入れ一個、あるいは煙管(きせる)一本買うにしても、それが良品か粗悪品かは見て簡単に判別できるのに、あれやこれやと言い募つのるのは問題のある商人だ。それに対し、ありのままにいうのは良い商人である。人の誠実さ、不誠実さがわかるように、相手もまた、こちらの誠実、不誠実がわかっていることに気づかない。
「実の道」を外れた不誠実な事例として、梅岩は次のような例をあげる。
染物屋が相手でも、染め違いがあれば、些細なことを大げさに言い立てて値引きさせて支払い、それを手がけた染色職人の悪口をいって痛めつけておきながら、その一方で、注文主の客に対してはきちんと染め代を請求して金を受け取るが、職人にはその金を渡さないこともある。
梅岩は、染物屋に値引きさせて、かつ顧客には正規の値段で売る事で得た利益を「二重の利益」として戒めた。呉服屋の番頭格まで努めた梅岩が実際に見聞きした実例だろう。
信用による繁栄と幸福への道
梅岩が目指した商売とは、これとは逆の道だった。
…武士たる者は主君のために命を惜しんでは士(さむらい)とはいわれまい。商人も、そのことがわかれば、自分の道はおのずと明らかになる。自分を養ってくれる顧客(商売相手)を粗末にすることなく、心を尽くせば、十中八、九は先方の心に訴えるはずだ。先方の気持ちに添うような形で商売に精魂込めて日々努めるなら、世渡りする上で何も案じることなどない。
「自分を養ってくれる顧客に心を尽くせば」、その姿勢はかならず相手に伝わる。
『大学』(伝六章)に「他人が自分を見る視線は、体の奥にある肺や肝臓を見通すくらい鋭い」(人の己(おのれ)を視ること、其の肺肝を見るが如し)とある。この道理がわかるようになると、言葉をありのままに話すので「正直者だ」と思われ、どんなことも任されるようになり、苦労することなく人の倍も売ることが可能になる。
商人は、人から正直だと思われ、互いに「善い人」と感じて心を許し合える間柄にまで発展するのが望ましい。その醍醐味は、学問の力なくしてはわからないだろう。それなのに、「商人には学問はいらない」といって、学問を毛嫌いし、近づこうとしないのはどういうことなのか。
商人が、顧客と心を許し合える間柄にまでなる「醍醐味」とは、まさに100年以上も続くような老舗企業の従業員が味わう幸福だろう。「信用」とは、企業にとっては繁栄の道であり、従業員にとっては幸福の道なのである。我が国には、この「実の道」をわきまえた人や企業が多い。それは、梅岩に代表される多くの人々がこの「実の道」を説いてきたからである。