【京都】ここにも家康の影。元は一つだった本願寺が東西に別れた理由

 

西本願寺には秀吉の色彩が色濃く残り安土桃山文化の遺構が多く残されています。絢爛豪華と侘びさびの両極の建物、広間があり国宝や重要文化財を多く有しています。

東本願寺は江戸期以降の建物や文化を色濃く残し大きく荘厳な建物が並びます。内部も絢爛豪華と云うよりはきらびやかで新しい感じです。国宝や重文の建物は無く御影堂や阿弥陀堂も登録有形文化財です。

家康が秀吉色を嫌ってか御影堂や阿弥陀堂の伽藍(がらん)配置は全く逆で畳の向きまで違います(西本願寺の南北方向に対し、東本願寺は東西方向と異なる)。柱も「西」は角柱を使うのに対して、「東」は丸柱を使う。仏壇仏具にも違いは表れていて、「西」用はキンピカの仏壇に渋い仏具。逆に「東」用は仏壇が少し地味で仏具はキンピカ。お経も「南無阿弥陀仏」が「西」本願寺派では「なもあみだぶつ」、「」大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。

共通点は、般若心経は唱えない、線香も立てずに折って横にねかせてくゆらせます。そして意外に思われるかも知れませんが、戒名や位牌はありません。祈祷(きとう)、まじない、占いなどを否定し、おみくじ、お札、お守り、御朱印もありません。焼香の際、抹香をつまんで香炉に入れるとき、額の位置で「香をいただく」という動作をしません。お盆に特別な飾りや迎え火、送り火などはしません。

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