幕末における西本願寺と東本願寺のスタンスの違い
信長と戦った11年に及ぶ石山合戦の頃、当時中国の最大勢力毛利輝元は本願寺を支援していて強い絆がありました。豊臣時代は五大老にまでなった輝元は、関ヶ原の戦いで総大将であった責任を問われます。その頃、本願寺を継げなかった教如は家康に接近、関ヶ原でも後方支援に回りました。教如は家康から東本願寺を与えられ、教団は東と西に分裂させられる。
そんな経緯から、幕末動乱期には東本願寺は佐幕派、西本願寺は倒幕派のスタンスをとることになります。この辺りは面白いですね。特に西本願寺は尊攘派の志士の密談所を提供したり、蛤御門の変では敗走する長州兵を保護しています。この露骨な「長州びいき」が京都守護職・松平容保(かたもり)の怒りをかい、新撰組を西本願寺に乗り込ませています。
維新後は、東本願寺が苦しい立場に追いやられます。しかし、西本願寺と歩調を合わせ、新政府に戊辰戦争の軍資金を出資するなど、償いの姿を見せることで生き延びたと伝わっています。
いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。
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