2.人生とコトとモノ
私も還暦に近づき、親の介護が始まった。
介護をしていると、様々な発見がある。例えば、生と死の境界は曖昧だということ。
若い時は、人間は元気で生きていて、病気や事故で突然死んでしまうというイメージを持っていた。生と死の間には明確な壁のようなものがあると思っていたのだ。
しかし、介護をしていると、人間は脳や身体がすこしずつ確実に衰退していくのだと思うようになった。生と死の境界は曖昧であり、少しずつ死に近づいているのだ。
勿論、自分も着実に死に近づいている。身体能力は落ちていくし、記憶力や判断力も落ちていく。現在は、まだ知識や経験が老いをカバーして余りあるが、そのうちに老いが優勢になっていくに違いない。
こうした変化は消費行動にも変化をもたらす。高齢者人口が増えることは、世間の消費の気分が変わるということである。
「モノを買う」という意味も変わってくる。
生気にあふれた若い頃は、「モノを買う」こと自体が自己表現の一部だった。こんなモノを買っているこんな自分、を認識するのだ。
しかし、歳と共に、モノを介して自己表現することに興味がなくなっている。時計も靴も服も自動車も、自己表現とは関係ない。
私が、モノを買う目的は二つだ。
第一は、モノを使って何かをすること。使うためにモノを買う。当たり前だが、モノは使ってこそ価値が生まれる。
こだわるコトの道具なら、価格より性能や美しさを重視する。こだわらないコトであれば、価格を重視する。
第二は、価値が下がらないモノに投資すること。あるいは、モノを評価するために購入すること。この場合は、使わなくても商品を購入する。
一方で、ラグジュアリーブランドには興味がなくなっている。ラグジュアリーブランドには、社会的な価値がある。ラグジュアリーブランドの商品を持つことは、一定の階層に所属することを意味する。しかし、死に向き合う年齢になれば、社会的なステイタスに興味がなくなる。
最新のファッションにも興味がない。私の場合、職業としてトレンドを観察しているが、自分自身がトレンドを追いかけようとは思わない。むしろ、変わらないものに価値を見出したい。
3.欲しいモノは売ってない
最近、売ってるものを欲しいと思えなくなっている。売れると思って作る商品に魅力を感じないのだ。
欲しいものは、私がオーダーして作ったもの。あるいは、私を想定して作ってくれたもの。信頼できる人が、私のために選んでくれたもの。
大衆に売れると思って作ったものは、欲しいとは思わない。生活を維持するために買うだけだ。
したがって、欲しいものは売っていないし、売っているものは欲しくないということになる。当然、店を見ても面白くない。商品も面白くないし、売らんがなの空間も面白くない。
見たいのは、商品を作っている人であり、工程である。知りたいのは商品に隠された文化であり、歴史である。そして、商品を作る人の想いである。
モノが欲しいわけではない。モノを介した学習、体験をしてみたいのである。
これを体験できるのは店ではない。工場であり、工房である。あるいは、展示会会場かもしれない。生産者と対話できる場所。生産者が出店する市場のような施設に魅力を感じるのである。
百貨店なら、売場はつまらないが、職人が集うような催し物会場は面白い。派遣販売員の接客なんて受けたくもないと感じている。