フィリピン独立の影に日本あり。今も語り継がれる涙の友好物語

 

「おせいさんよ、さようなら、さようなら」

リサールはスペイン公使館から、日本に開業医として残って欲しいという要請も受けた。心の通うおせいさんとともに、この国に留まりたいという気持ちが湧いたのも当然だろう。

しかし、故郷や世界各地にはフィリピン独立のために自分を待っている同志がたくさんいる。断腸の思いで、彼は当初の計画どおりヨーロッパに向かう決心をする。4月12日、横浜港からの出発を明日に控えて、リサールはおせいさんとの別れの一時を、目黒のあるお寺で過ごした。おせいさんも武士の娘、リサールの志を察して、別れの覚悟は固めていた。おせいさんと分かれた晩、リサールは次のような手記を残した。

日本は私を魅了してしまった。美しい風景と、花と、樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ! おせいさんよ、さようなら、さようなら。

 

思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。

 

私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。

 

もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。さようなら。さようなら。

「最後の訣別」

ヨーロッパに渡ったリサールは、2冊目の小説「反逆者」を発表し、フィリピンでの独立活動家の機関誌にも投稿を続けた。1892年には家族や友人の反対を押し切って祖国に戻るが、逮捕されミンダナオ島に流刑される。4年間の流刑を終えてマニラに戻った彼を待ち受けていたのは、そのころ激化していた独立勢力の武装蜂起を教唆したとして、名ばかりの裁判を受け、銃殺刑に処せられるという運命だった。

処刑当日、別れに来た妹に形見として渡したアルコールランプの中には、「最後の訣別と題した14節ものスペイン語の詩が隠されていた。

さようなら、なつかしい祖国よ
太陽に抱かれた地よ
東の海の真珠、失われたエデンの園よ!
いまわたしは喜んできみにささげよう
この衰えた生命の最もよいもの「最後の訣別」を
いや、生命そのものを捧げよう
さらに栄光と生気と祝福が待っているなら、
何を惜しむことがあろう。(第一節)

1896年12月30日の朝、35歳のホセ・リサールはスペイン兵士の放った銃弾に倒れた。「最後の訣別」は、フィリピン独立に挺身する人々に永く愛唱され続けた。この12月30日は、独立の英雄であり、国父であるリサールの死を悼む日として、今も国家による儀式が行われている。

リサールが処刑までの最期の日々を過ごした要塞イントラムロスには、現在、リサール記念館が建てられ、気品のあるおせいさんの大きな肖像画も掲げられている。

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