フィリピン独立の影に日本あり。今も語り継がれる涙の友好物語

 

ロハスを救った神保中佐

戦後最初の大統領となった第5代マニュエル・ロハスは、日本軍の進攻が始まった時に、日本と戦うべく、志願してフィリピン軍の指揮に当たった。マッカーサーが豪州に脱出した後、飛行機を迎えに出すと言ってきたが、「自分はフィリピン民衆と運命をともにする。戦争が済むまで一歩も離れない」と断っている。

ロハスは日本軍に捕らえられ、マニラの軍司令部から処刑せよとの命令が出された。この時に出会ったのが、神保信彦中佐である。神保は、やつれてはいたが眼光鋭く気品のあるロハスを一目見て、これはただ者ではない、と見抜いた。いろいろ話を聞いてみると、日本軍とは戦ったが、決して親米でもない。あくまで祖国フィリピンの独立を求めているのである。ロハスは日本の歴史にも詳しく、日本はヒロヒト天皇を戴く仁義ある国で、ドイツのように捕虜を虐殺したりしないと信じているとまで言う。

これはフィリピンのためにどうしても生かしておくべき人物だと考えた神保はマニラの軍司令部に飛んで、処刑命令について問いただした。すると命令は急進派の若手参謀が勝手に出したものだと分かった。和知鷹二参謀長は神保の助命意見を諒解して、ただちに「ロハスを当分宣撫工作に利用すべし」との軍命令を出してくれた。

ロハスはミンダナオ島北部にあるマライバライで、約2万人の捕虜を取り仕切る役を命ぜられた。日本軍が敗退した翌年の1946年7月4日、ロハスは戦後初の大統領に就任し、フィリピン共和国の3度目の独立を宣言した。

神保を救ったロハス大統領

神保はロハスを救った後、北支那方面軍に転属となり、共産軍との戦いに活躍したが、日本の敗戦に伴い、中国戦犯容疑者として逮捕された。隆子夫人は、何としても夫を助けねば、と奔走し、その思いをロハス大統領に伝えることができた

ロハスは直ちに蒋介石あてに助命嘆願書を送った。「私の大統領就任の最初の手紙が、なぜこのような個人的なものでなければならないかは、本書の内容でお分かり戴けると思います」と書き始められた手紙は、自分が生きながらえているのは神保中佐のお陰であること、彼がいかに人道的な人間であるか、を真情をこめて綴ったものであった。ロハスのまごころは蒋介石を動かしほどなく神保の釈放が決まった

神保は昭和22(1947)年6月28日早朝、新聞記者やニュース・カメラマンが待ちかまえる品川駅に着いた。「地上の権力はいつかは亡びるが真の愛情は永久に続く」と神保は語った。ロハスは翌年4月15日、大統領就任後2年余りで急逝するが、そのわずか6日前にも神保の生活を案じた手紙を送っている。

神保はその後、日本リサール協会の理事長を務め、日比友好に尽力し、昭和53年に他界。1995(平成5)年には第12代フィデル・ラモス大統領から、ロハスを救った行為に対する表彰状が、未亡人と長男に手渡された。

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