フィリピン独立の影に日本あり。今も語り継がれる涙の友好物語

 

対米独立戦争での支援

リサールが銃殺された2年後の1898年、スペインとアメリカとの間で米西戦争が勃発し、この機に乗じて革命指導者の1人エミリオアギナルドがフィリピン独立を宣言し、自ら初代大統領に就任した。しかしスペインを打ち破ったアメリカは、新たな宗主国として居座ってしまう。フィリピン革命政府はこんどは米国との戦いを始め、日本にもマリヤノ・ポンセ駐日外交代表を日本に送って、支援を求めた。

明治政府はフィリピンに同情的だったが、日清戦争後で国力が弱っており、またロシアの南下が迫る中で、アメリカと事を構える余裕はなかった。それでも日本国内有志が300トンもの武器弾薬を送ったり、5人の陸軍予備役将校やフィリピン在住日本人約300人が義勇軍として、独立戦争に加担した。

革命軍の指導者リカルテ将軍はアメリカに鎮圧されて一時、囚われの身になったが、脱獄して日本に亡命。大東亜戦争が始まるとフィリピン独立の約束を取り付けた後、日本軍とともに75歳の老躯を駆って、祖国への再上陸を果たした。1943(昭和18)年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、「フィリピン共和国として独立の日を迎えたが、その後、日本軍の敗退と共に逃避行軍を続け、80歳にして亡くなった。

リカルテ将軍の副官として永く公私の交わりを続けた太田兼四朗氏は、遺言にしたがって、遺骨の一部を第2の故郷である日本に持ち帰り、東京多摩の太田家の墓所に納めた。昭和46年には、将軍が亡命中に住んだ横浜市の山下公園にリカルテ将軍記念碑が建立されている。

ラウレル大統領と大東亜共栄圏の理想

日本軍政下からの独立は、現在のフィリピンの教科書でも「第2共和国」とされ、大統領となったホセラウレルも、マラカニアン宮殿で第3代大統領として肖像画が飾られている。

11月5日、東京で大東亜会議が開かれ、満洲国、タイ、ビルマ、インドなどの代表が集まり、ラウレル大統領もフィリピン代表として参加した。

歓迎会に入った時、私の両眼からは涙があふれ出た。そして私は勇気づけられ、鼓舞され、自らに誓った。10億のアジア人、10億の大東亜諸民族――どうして彼らが、しかもその大部分が、特に米英に支配されてきたのか。
(バー・モー「ビルマの夜明け」より)

大東亜共栄圏の理想をラウレルは心底から支持したが、日本の国力で英米を駆逐できるとは、信じられなかった。いずれ日本は敗退するだろうが、しかし現時点では日本から独立を与えられ、弱小国として日本と米国の狭間で、とにかく民族が生き残れるように導いていくことを自らの義務と考えた。昭和19年10月には、日本の敗戦必至と判断して、次のような遺書を書いた。

兼ねて言う通り、日本が負け比島(フィリピン)が再び米国の制圧下に入るも、此(この)大東亜戦争の影響は必ず将来の東亜に於ける子孫に及ぼし、亜細亜人の亜細亜なる思想は、到底撲滅せらるべきものにあらず、必ず自分らの衣鉢を継いで立つものあるを確信しおれり。

ラウレル大統領と親交を結んだのが、駐比日本大使でフィリピン派遣軍の最高顧問だった村田省蔵だった。敗色濃厚となった1945年6月、弾丸雨飛の中を村田大使に率いられて、ラウレル大統領、アキノ国会議長やその家族などは日本に亡命し、奈良ホテルに滞留した。

戦後、ラウレルは一時米軍に逮捕されていたが、帰国して上院議員として政界に復帰し、日本との賠償会議の首席全権を務めた。この時、奇しくも日本側代表となった村田省蔵と渡り合い、ともに日比国交回復に貢献した。亡命中に滞在した奈良ホテルには、「ホセ・P・ラウレル博士―比共和国第二代大統領」と刻まれた胸像が残されている。

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