4.カヨコが「わたしの国」と呼ぶアメリカは、そして、「実力があれば誰でものしあがれる」国として、なんだかぼやけた輪郭で描かれている。
そもそも「実力」とは何かが一コマも描かれていないので、カヨコにどんな実力があるのかも謎である。
アメリカの政治家にとって、実力と言うものの中に、「アメリカンスタンダード」を体現しているかどうかということがあるのは間違いない。それは中身というよりはむしろ外見であり、「正当性」を感じさせる力、「わたしはアメリカの価値観を体現している」と人に信じさせるコミュニケーション力、「つながる力」である。
それにはとほうもないアーティキュレーションが要求される。ヒラリー・クリントンだって、遊説先によって少し英語のトーンを変えているくらい、微妙なコミュニケーション力なのだ。たぶんそれは日本の政治家がまったくもって持っていないし、ひょっとしたら見たことも聞いたこともないものだ。だからダメとかいってるのではなくて、そういうシステムなのだ。
どんなに頭が良くても、インド訛りのインド系アメリカ人や日本訛りの日本人または日系アメリカ人が、米国大統領に選ばれる可能性は、現時点ではゼロである。
この映画ではアメリカが重要な役割を果たしている。戦後ずっと日本の首相のうしろに控えていた顔のない存在として。それはいいんだけど、きっとアメリカの観客にはそれがまるっきり伝わらない。それが惜しい。
代わりにこの「カヨコ」を観て、アメリカンたちは困惑して帰っていくことだろう。ゴジラはクールだったし、あの女の子は可愛かったけど、笑っちゃうよね、と。
5.そういう意味でも、この映画はとても閉じている。製作時に、国外の観客までは考えなかったのだろうけれど、あまりにも残念なのだ。
上映後、場内では拍手が起きていた。ゴジラのコアなファンたちには満足のいく映画であったらしい。でももっと辛い、もっとつながれる、もっと動かされる、もっと普遍的な映画にもなれたはずなのに、と私は少し悲しかった。
唯一の被爆国で、そして3.11の大災害を経験したばかりの国の人が作ったこのゴジラは、もっともっと、世界につながれる映画であってほしかった。
世界一の核保有国であり、歴史上唯一、市民の上に核爆弾を落としたことがあり、その事実を「仕方がなかった」「正義だった」とほとんどの国民が考えているこの国のひとたちを、すさまじいリアリティで説得し、感動させて、震え上がらせ、瓦礫の街の目線にいっとき共感させる映画であってほしかった。
自分の国の首都が核ミサイルの標的にされる無念さを、ゴジラへの畏怖とともに体感して、震えてほしかった。
わたしはちょっとばかり、ゴジラに期待しすぎていたらしい。
【TOMOZO】 yuzuwords11@gmail.com
米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。
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