70年代まではワシントン・リヤド・テヘラン枢軸だった
サウジアラビアとイランは宗派が違うものの、いつも対立していたわけではない。1960年代までの石油利権を握っていたのは欧米の国際石油資本(メジャー)の大手石油資本でセブン・シスターズといわれていた。70年代までの当時の原油価格は1バーレル=1ドル前後で、メジャーがその配給権利と価格の実権を握っていたのだ。
このためメジャーは原油価格を抑えるためにはサウジアラビアとイランの2大国をコントロールする必要があり、アメリカなどが武器を与えたり、軍事訓練を教えたりして統治していたし、イランのパーレビ国王政権にも支援していた。当時の原油価格はワシントン(米国)、リヤド(サウジアラビア)、テヘラン(イラン)枢軸で決まるとさえいわれていたものだ。
ホメイニ革命で一変
その頃の実力者はサウジアラビアがファイサル国王、イランがパーレビ国王だったが、79年のイラン・ホメイニ革命でパーレビが追放されると情勢は一挙に変わった。中東産油国はメジャーを通じて石油を売ることをしなくなり、OPECや直接消費国と取引するDD原油に比重を移し変えていく。そこへ1973年に中東戦争が勃発し、もはやOPEC主体の石油価格決定も難しくなっていく。
そして現在はいまや石油に対抗するシェールオイルをアメリカが産出し始めたことから、ますます石油価格の安定が難しくなり、産油国の結束も弱体化していまや市場価格は投機に翻弄されている側面が強くなっている。さらに非OPECのロシアなどの産出量も多く、今やアメリカ、ロシアの産出量は中東を大きくしのいでいる。OPECが石油価格を支配できたのは昔の話なのである。
そんな時代に入った石油価格は、国際商品価格決定の大きな要素ではあるもののかつてのようなパワーはなく、むしろ中東内部の政治的対立が大きく影響し始めている。大国サウジアラビアとイランの国交断絶と最近の石油価格の低落、産油国パワーの弱体化は、中東産油国をまとめる国、人物がいなくなったことの証左だろう。