ヘレン・ケラーが支えにした盲目の天才国学者、塙保己一の大偉業

 

「群書類従」

保己一は叢書の名を『群書類従』とした。価値ある古書の群れを類に分け、系統的に位置づける。類としては「神祇」「帝王」「補任」「系譜」など25。たとえば物語部には「伊勢物語」「竹とりの翁の物語」、日記部には「和泉式部日記」「紫式部日記」、紀行部には「土佐日記」「さらしな日記」、そして雑部には「枕草子」「方丈記」から聖徳太子の「十七箇条憲法」まで、今日の我々が古典古文として習う多くの書物が収められている。

しかし単に古書古本をまとめて再出版するというだけ作業ではない。まず各地に散在している資料の収集だけでも一苦労だ。たとえば平安初期にまとめられた「日本後紀50巻が行方知れずになっていた。それが京都の公家の所にあるらしいと伝え聞いた保己一は、門人を京都に派遣して探させた。門人は京都を探し回って、ようやく伏見宮家にとびとびの10巻があることを突き止めた。しかし伏見宮家は外部の人間に見せてくれない

そこで門人は策を練って、まず伏見宮家の家司と酒友達となり、そのうちに家に泊まてもらえるようになった。そしてそういう晩には書物を夜の間借りて読むことを許されたので、ひそかに10巻全部を写しとったのである。

日本後紀は、日本書紀に始まる我が国の六つの代表的な国史「六国史」の一つである。保己一の志とこの門人の熱意がなかったら、日本後紀は現在に伝わらなかったかもしれない

刊行開始

また集まった古書をそのまま印刷するわけではない。それが原書であり、後世に残す価値のあるものでなければならない。保己一は集めた書物をつねに3人の門人に読ませて正しいと思われるものをとっていった

印刷は板木で行う。専門の板木師が1枚の板に20字10行を一頁として、左右2頁を逆向きに彫っていく。これが今日の400字詰め原稿用紙の基となった。彫った後の文字の修正は、その部分をえぐり取り、別の木片に彫りなおしたものを埋め木する。板木は両面を彫り、1枚で原稿用紙2枚分となる。群書類従全体では、この板木が1万7,000枚以上となった。

印刷は板木に墨をしみこませ、2回目の墨をぬった上に和紙をのせ、竹の皮で滑りをよくしたバレンという用具でこする。字の大きさや文字数により、力の加減を微妙に調整しなければならない。

天明6(1786)年2月、保己一はまず平安時代から鎌倉時代にかけての説話集である今物語を刊行し、上々の評判を得た。この『今物語』を見本として、群書類従の広告文を作り予約の募集を始めた。今物語と同じ仕立てで、千二百余種の文献を25の類に分けて、600冊余りの叢書とすること、毎月1、2冊づつ刊行し、刊行部数は200部、値段は紙10枚で6分2厘、仕立て4分5厘、等々。保己一41歳。志を立ててから、はや7年以上の年月が流れていた。

火にも負けず

寛政4(1792)年7月、麻布あたりから出火した火の手はなお遠かったが、保己一は風の様子からこれは危ないと感じて門人たちに避難を命じた。群書類従の出版のさなか、家の中は今まで苦労して集めた書物や、他家より借り受けた書籍で一杯である。やがて火の手はとめどもなく広がり、保己一の家も全焼した。かなりの書物は運び出したものの、板木は多くを焼失した。

焼け跡に立つ門人たちは絶望して、「群書類従の出版はもう諦めるしかありません」と言い出す。「なにをいうか。みんな元気な身体があるではないか。しばらくは中断するとしても、また始めるべく手はずを整えていこうではないか」

時の老中・松平定信は文武両道に秀で、寛政の改革に当たって学問を奨励していた。保己一は翌年、和学講談所および文庫を建設する用地の拝借願いを幕府に出し、300坪の無償借用が許された。また建物の建設資金350両も貸しつけ、さらに毎年50両の資金援助もなされることとなった。今までは売上があがってからそれを次の出版資金とするという形であったので8年間で43冊しか出せなかったが、この後、毎月4冊刊行の見通しがたった。

当時は旗本やご家人などの暮らし向きも苦しかったので、優れた人材が和学講談所に集まって、写本や筆耕などの仕事に加わるようになった。講談所ではいつも書を読み合う声、板木を彫る音、さらさらと紙を繰る音が溢れていた。

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