研究の信憑性を検証
話がそれましたが、この記事を見た時に、僕は元の論文を見てみようと思ったわけです。論文は2015年にParasitology(寄生虫学)という雑誌に掲載されたもので、タイトルはToxoplasma gondii seropositivity and cognitive functions in school-aged children(トキソプラズマ抗体の存在と児童の認識能力)というものです。タイトルはわりとニュートラルです。「トキソプラズマ感染が児童の認識能力を低下させる」というタイトルではありません。
さて、論文に記されている調査では、数学、言語、図形空間認識、記憶力の4項目に渡って児童の能力を調べました。そして、トキソプラズマ抗体が血中に検出された(つまり、感染歴がある)子供と、検出されない未感染の子供でそれらの能力に差があるかを調べたのでした。
その結果、男児には差が見られませんでした。上記のニュースには7%読解力が劣ったとありますが、実際の論文のデータを注意深く見ると、統計学的な有意差がないのです。つまり、差がないということです。「統計学的有意差」というのは、データを扱ったことがない人には耳慣れない概念なので、簡単に説明しておきます。例えば、紅組と白組がカラオケ大会をしたとします。紅組の点数の平均点が90点、白組の平均点が85点だったとします。この時、科学の世界ではすぐに「紅組の勝ち」という結論は出せないのです。個人の点数には必ずばらつきがあるので、この5点差がばらつきのせいなのか、それとも本当に信頼できる点数の差なのか、それを統計学で分析して結論を出すのです。
話をこの研究に戻すと、「男児は7%の差」というのは統計学的に優位ではない、つまり「ばらつき」であるわけです。それなのにあたかも差があったかのような書き方をするのは明らかな間違いです。
一方、女児の場合は数学以外の科目で感染歴のある子の点数が低い結果が出ました。では、トキソプラズマは女児だけに悪影響を及ぼしたのか?と推測されますが、さらにデータをよくみると、この研究自体に大きな欠陥があります。
まず、感染していた女児達の家族の20%が英語を母国語として使っていないのです。一方で感染していない女児達の家族の同数値は6%。そして、この14%の差には「統計学的有意差」がありました。単純に考えて下さい。英語を母国語としていない家族に育っていれば、母国語として使っている家庭の子供よりも英語の読解力が劣るのは当然のことです。
問題はまだあります。トキソプラズマに感染していない児童が、他の感染症にかかっている割合が58%であるのに対し、トキソプラズマに感染している児童は73%の割合で何か他の感染症にかかっていたのです。そしてこれも統計学的有意差がありました。つまり、トキソプラズマ以外の別の感染症が、こうしたテストの結果に影響を及ぼした可能性も否定できないわけです。こういう条件の時、単純に「トキソプラズマのせいだ」とは結論できないのです。
極めつけに、この研究で対象となったトキソプラズマに感染している子供達は感染していない子供達よりも生活水準を示す数値が低く、より貧困度が高いのです。その結果も統計学的有意差がありました。アメリカでは、親の収入と子供の学力には相関があることが知られています。収入が多い家庭は子供により教育を与えることができますが、収入が低ければそれもできません。悲しい現実ですがそれが事実なのです。
こうしてみると、トキソプラズマに感染している子供達の中には以下の条件が当てはまる子達が多いわけです。
- 英語が母国語でない。つまり家族が外国からの移民である。
- トキソプラズマの他に感染症がある。健康状態が悪い可能性がある。
- 貧困率が高い。教育や環境や栄養状態が劣る可能性がある。
そりゃ、こんな条件では成績に影響が出るのも無理もないでしょう。公平な比較をする時は、こういった条件を同じにしなければ、明確な結論が出せないのです。特にこの研究に関しては、上記3点のように結果をスキューして(偏らせて)いるとしか思えない要素が存在しています。もし僕がこの論文を査読・審査したとしたら、母国語でない子供のデータを除いて分析しても差が出るかどうか、公平な比較方法を要求するでしょう。おそらく、論文の著者達もそうしたものの、そうすると結果に差が出なかったのだろうと思います。もしそれで差が出ていたら、もう少しインパクトの大きい(レベルの高い)ジャーナルに投稿できたに違いありません。僕の辛口コメントで著者達には気の毒ですが、研究の質としてはイマイチで、僕が査読者だったらリジェクト(掲載不可)しているでしょう。
要するに、この論文のデータでは「トキソプラズマに感染すると子供の成績が悪くなる」という結論は出せません。ただし、トキソプラズマがヒトの脳や行動に影響を及ぼすかもしれないという説にはいくつかのエビデンスがあるものの、まだ明確にはなっていないということは付け加えておきます。
結局、こういった曖昧な研究をあたかも「証明された」のように書いたメディアが軽率すぎなのですが、その影響をしっかりと自覚してもらわないと本当に困ります。しかも、あることないことでっち上げています。ニュースには「ネコの腸内のトキソプラズマが、人を含む哺乳類の脳に伝染することで、子どもの記憶力と読解力が低下する」という記述がありましたが、この論文ではそんなことは全く証明していないし検証さえしていません。記者が思い込んで適当に書いただけです。
なぜこんなニュースが生まれたかというと、単にキャッチーで読者の目をひくからです。明確な結論が出ていないイマイチな研究をあたかも大発見のように取り上げて、証明もされていないことを科学に素人な記者が勝手に書き足し、より目立つようにしているのです。医学界にはもっと重要な研究や発見がたくさんあるのに、ニュースを見ているとキャッチーなものばかりを取り上げる傾向があります。それは週刊誌などの民間メディアだけでなく、NHKでさえも同様です。