天皇陛下が日本人名に気付かれた逸話も。知られざる日系二世の大統領

 

首長の娘と結婚

トシオ・ナカヤマは、昭和6(1931)年にトラック諸島の北西離島・ウルル島で生まれた。父・中山正実は横浜市出身、母はウルル島の首長家系の娘マルガレッタ。六男一女のうちの三男だった。

父・正実がトラック諸島に渡ったのは、大正7(1918)年、日本軍が南洋群島を占領してからわずか4年後のことだった。親戚筋が経営する貿易会社から派遣され、グアム島に赴任する途中だったが、支店のあるトラックに逗留しているうちに、貿易会社が倒産し、行く先を失って、トラックに住み着いたのだった。

正実は大正10(1921)年に設立された南洋興発株式会社に入社する。これは南洋群島での製糖業、水産業、鉱物資源開発を一手に手がける国策会社で、「北の満鉄(満州鉄道)、南の南興」と並び称された。

正実は来島の翌年、すぐにウルル島首長の娘マルガレッタと結婚している。ミクロネシアは母系社会で、首長の継承者は娘の息子となる。したがって、娘の結婚相手に外国人を迎える事に抵抗は少なかった。正実のように首長の娘と結婚した日本人男性は他にもあり、トシヲの幼友達であるアイザワ・ススムの父もその一例で、ススムは戦後、実際に首長を継いでいる。

教育を重んずる日本の統治で、南洋群島にも近代的な学校教育が導入された。日本人子弟が通う尋常小学校と、現地人のための公学校の二本立てで、父親が日本人の場合は、母親が現地人であっても、日本人として扱われたので、トシヲも尋常小学校に通った。

「何がなんでも春島に渡り、学校に行くぞ」

しかし昭和20(1945)年の日本の敗戦が14歳のトシヲの人生を大きく変えていった。南洋群島は米軍に占領され、在留邦人は日本に強制送還されることになった。妻や子供を日本に連れて帰ることは可能であったが、終戦直後で住宅も焼き尽くされ、食糧もない日本に帰っても生活が成り立つはずもなかった。多くの在留邦人が泣く泣く家族をおいて帰国しなければならなかった。

父・正実は英語が堪能だったため、米軍に引き揚げ作業を手伝わされた。なんとかトラックに留まりたいと米軍に在留許可を申請したが許されず、終戦から1年半後、最後の引き揚げ船で帰国させられた。「日本国内が落ち着いたら、必ず帰ってくるから」と言い残して。

大黒柱を失った一家の家計は一気に苦しくなり、トシヲは兄弟とともに、アメリカ人の始めた水産会社の下働きをして、母親を助けた。一家はなんとかやりくりして、母の郷里であるウルル島に戻った。

トシヲは大好きだった父への思いを募らせ、「船乗りになり、日本に行って父を捜したい」といつも考えていた。それには英語や数学を学ばなければならないが、離島には学校はなかった。

そんな折、耳寄りな話を聞いた。米海軍が諸島統治の拠点を置いた春島で学校教育を始めるというのである。トシヲは「何がなんでも春島に渡り、学校に行くぞ」と決心した。

それから間もなく、離島を巡る巡回船が来ることになった。「このチャンスを逃してはならない」と母親にだけ打ち明け、自分で育てたブタ一匹を抱えて巡回船に潜り込んだ。ブタは、春島に住む遠い親戚への下宿代であった。

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