天皇陛下が日本人名に気付かれた逸話も。知られざる日系二世の大統領

 

父への思い

春島にできた学校は教室が一つしかなく、しかも満員だった。無登録のトシヲの席はなかったが、教室の外から授業を聞くことは許された。ほどなく何人かの生徒が落ちこぼれて教室に空きができ、トシヲは教室内に席を与えられた。家でも自分で石油ランプを作って一心に勉強を続けた

それからわずか1年でトシヲの英語力数学力はアメリカ人教師を驚かせるほどに急伸し、年下の生徒たちに勉強を教える役割を務めるまでになった。勉強熱心で成績抜群のトシヲは、その後、正式な中学の教員となり、さらに22歳には信託統治政府の職員に採用された。

仕事は順調だったが、別れた父への思いは募る一方だった。トシヲの父への思いを知ったアメリカ人将校が、日本にいる正実を見つけ、連絡をつけてくれた。しかし、その直後に届いた父からの手紙に、トシヲの胸は張り裂けそうになった。

元気でいるが、諸事情があって島には帰れない。家族との再会は諦めた。私のことは忘れて欲しい。今の生活を大事に、みなで頑張ってくれ。
(『南の島の日本人―もうひとつの戦後史』小林泉・著/産経新聞出版)

「この手で国家建設を目指そう」

「どうして? あの戦争さえなければ父と切り離されずにすんだのに」という気持ちが、トシヲに大学進学を決意させた。人々の暮らしは政治や行政に左右される。それならば本格的に政治学や行政学を学び島々に貢献できる仕事がしたい、と考えた。

トシヲは信託統治政府が提供する奨学生プログラムに応募し、なんなく合格してハワイ大学に入学した。

ハワイ大学の東西センターには、世界中の途上国から青年たちが集まっていた。彼らは自国に誇りを持ち、国家建設への意欲に燃えていた。しかし、日本人であったはずの自分のパスポートには「無国籍」と書かれていた。

ミクロネシアは国家でなければならない、この手で国家建設を目指そう、とトシヲは心に誓った。自分は大勢の人の前で演説するのは得意ではないので、政治家には向いていない。しかし「アメリカの言いなりではなく、私たち自身の国を作るには、自ら政治家にならなければならない」と思った。

そのチャンスは意外に早くやってきた。1957(昭和32)年、地元民による意思決定機関として、トラック諸島に地区議会が設置され、その翌年には選挙が行われることになった。

トシヲは急遽ハワイから帰島して、立候補した。圧倒的多数で当選27歳の若き政治家が誕生した。

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