父との再会
トシヲが30歳となった1961(昭和36)年、日本に行くチャンスが巡ってきた。国連の議会に派遣されることとなり、その際に日本への立ち寄りが可能となったのである。
音信が途絶えた父を捜して一目会いたい、それだけがトシヲの願いだった。しかし唯一の手がかりは、父の手紙の差し出し区域が「品川」であったことだけだった。
事情を知ったホテルのボーイとタクシーの運転手が、トシヲを助けてくれ、一緒に品川一帯の交番を回って、父を捜した。2日目の夕方、大井町の交番でお巡りさんが、管轄地域に「大関正実」という人がいるが、その旧姓が「中山」だったらしい、と教えてくれた。
お巡りさんはトシヲを、2階建ての木造アパートに案内してくれた。胸が高まり、立ち尽くしていたトシヲを、ボーイとタクシー運転手が「行ってこいよ」と後押ししてくれた。
震える手でノックすると、扉が開き、そこに初老の男が立っていた。「トシヲか!?」。男は驚いたように顔をこわばらせて、やがて小さな笑みが顔中に広がって行った。「紛れもなく15年前に別れた俺のオヤジだ」と、トシヲは心の中で叫んでいた。
正実は体を壊し、経済的にも苦しい中で、トラック島への帰還の道もなかなか開けなかった。そんな正実を心配した親戚の世話で、かつての知り合いの女性と結婚していたのである。
正実は親戚一同と共にトシヲを歓迎し、「体調が優れないのを整え、仕事の区切りをうけたらトラックに帰る」との約束をしてくれた。
正実がトラックに戻ったのは、それから11年後、再婚相手を亡くした翌年の1971(昭和47)年だった。その後、トシヲの子供たち、すなわち孫達に囲まれて、穏やかな余生を送った。
「トシヲは将来の大統領候補だ」
父との再会を果たしたトシヲは、ますます国家建設の仕事に打ち込んでいった。1965(昭和40)年、ミクロネシア全域をカバーする上下両院からなる議会が設置された。トシヲはトラック地区から立候補し、当選。その後も当選を繰り返し、3期目からは上院議長に選出された。
行政府の長は、アメリカが送り込んだ高等弁務官であったから、上院議長であるトシヲが現地側の最高指導者であった。「シャイで内気な感じ」という印象を与えるトシヲだったが、信念を貫いてアメリカ側にも主張していく姿に、「トシヲは将来の大統領候補だ」との呼び声が高まっていった。
1979(昭和54)年、トシヲのリーダーシップによりミクロネシア連邦自治政府が発足すると、トシヲはそのまま初代大統領に選出された。その後も、トシヲはアメリカとの交渉を続け、1986(昭和61)年11月、ついに独立国家へと移行した。大統領になってから、7年半が過ぎていた。
翌年、トシヲは2期8年の任期を全うして、政界を引退した。30年に及ぶ政治家としての活動で国家建設の初志を貫徹したのである。