台湾は日本に救われた。命がけで「伝染病」を根絶した日本人医師

 

かつて日本は、台湾を統治するにあたり、ペストや腸チフスの猛威を撃退しようと努力しました。明治29(1896)年4月、台湾総督府は、「船舶検疫仮手続」を各地方行政に通達し、基隆、淡水、安平、打狗(高雄)、鹿港などの「開港場」で検疫を開始したのです。

続いて同年7月20日、「伝染病予防消毒心得」が公布されました。10月15日には「台湾伝染病予防規則」が公布され、その第一条には次の8種の伝染病が指定されました。コレラペスト赤痢天然痘発疹チフス腸チフスジフテリア猩紅熱です。

明治32年8月21日には、「台湾検疫規則」を再公布し、基隆、淡水、安平、高雄の4カ所を検疫港として改めて制定しました。総督府が、これだけ港を厳しく検査したのは、台湾はしばしば中国大陸からコレラの襲撃を受けていたからです。

明治28年の日本軍澎湖群島上陸当時、6,194人の日本兵士のうち1,945人がコレラに感染し、1,247人が死亡しました。罹患率は31%で、死亡率は64%にも達する数です。これ以後も、台湾ではしばしばコレラが流行しました。

ペスト(黒死病)は、日本領台後の明治29年5月、中国のアモイから台湾の安平港に入港した船舶から最初に検出され、すぐに台湾で大流行しました。ちょうどそんな折、後に台湾総督府医学校の3代目校長となる堀内次雄が台湾を訪れたため、すぐにペスト検出の仕事に従事することとなったのです。

当時、台湾に派遣された医師のなかで、顕微鏡操作ができ、細菌学を勉強した唯一の貴重な人材として堀内は周囲の期待を背負っていました。しかし、堀内を中心に検疫に力を入れようとした医師団を阻んだのは、ほかでもない台湾人だったのです。

当時の台湾人は、検疫に対して強い抵抗感を持っていました。医官が石灰や薬水で消毒をすることは、冷水で人を害すことであり、死亡者を火葬することは葬る地のない屍を燃やすことと同じ。また、医官が屍体を解剖するなどということは、屍を毀傷することである。このように信じていた住民は、堀内らの疫病退治に抵抗したのです。

そんな闘争を繰り返しているうちに、明治29~大正6(1917)年の間で、ペストにかかった患者は3万101人、死亡者2万4,104人にも達し、死亡率は80・08%にも上りました。この22年間の長い間、台湾ではペストが衰えることなく、人々を苦しめてきたのです。

ペストは、多くの場合ネズミを媒介にして伝染するため、総督府はネズミ退治を急務としました。当時のネズミ退治についての統計を見ると、明治41~大正13年の17年間に捕獲されたネズミの数は計5,411万442匹という、膨大な数でした。

それにしても、これだけのネズミが市街や田野に繁殖していたことからも、当時の劣悪な衛生環境が想像できるでしょう。台湾総督府の要請を受けた、東京帝大の病理学者・緒方正規教授や山極勝三郎助教授らは、台湾のペストを調査するため明治29年末に台湾へやってきました。そして緒方は、堀内次雄とともに、ペスト感染過程の研究に没頭したのです。

そして、彼らの努力によってペストが下火になり、ようやく撲滅されたのは大正6年ごろでした。それまで、さんざんペストの恐怖にさらされていた住民たちの喜びようはいかばかりでしょうか。

住民たちは、嬉しさのあまり「ペスト絶滅祝賀会」を開いたほどでした。また、腸チフスは台湾では「傷寒」と呼ばれ、大正元年以降大流行しました。毎年、感染者は1,000人に達し、100~200人もの死亡者を出しました。明治36年、堀内次雄は台湾ではじめて副腸チフスB菌の検出に成功。その4年後には、黒川嘉雄が副腸チフスA菌を検出するという偉業を達成しています。

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