侵略、お詫び、反省…「戦後70年談話」という挫折

 

弁解のために饒舌に

ところが、このようにして内外の世論に迎合しようとすればするほど周辺の右翼的政治基盤を納得させることが難しくなる。そこで、本来ならば「歴史認識に立ち入らない安倍談話」を目論んでいたはずなのに、逆に歴史についてあれこれと言葉を費やして、自分が変節したわけではないのだという右翼向けの弁解を潜り込ませようとして、むやみに饒舌となった。村山談話は1300字、小泉談話は1200字であったのに対して安倍談話は2.5~2.7倍の3300字になって、「美辞麗句を並べて長々としゃべりましたが、何をおわびしているのか、よく分からないね」と村山富市元首相から酷評されるようなものになった。

例えば、談話には確かに「おわび」という単語は入っているが、それは上述のように「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきました」という文脈に埋め込んでいるだけで、ジャーナリストで上智大講師のデビッド・マクニールが言うように「これは首相が謝罪していることを意味しない。単に、日本が既に謝罪していると述べているだけだ」(15日付毎日)。だとすると安倍は右翼に対して、「『私』を主語にして『おわび』をしていないところが工夫のしどころだったんだ。すでにさんざん謝罪してきて、安倍内閣もそれを引き継いでいるのだから、もう『子や孫、その先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません』、つまり謝罪はもう止めるという宣言に繋がっているのだよ」と説明することができる。これならば、「未来永劫、謝罪をするのは違和感を覚える」と言っていた稲田朋美=自民党政調会長も納得することだろう。

だがそのすぐ後に談話は「しかし」と継いで、「それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」と言っている。これも木に竹を接ぐ類で、論理が通っていない。謝罪はもうしないが、過去に向き合う歴史教育はきちんとやっていくという意味なのか? とするとどういう歴史観で? 談話に全体としては好意的なシンガポールのラジャラトナム国際問題研究所のレオナルド・セバスチャン准教授は、後の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせないというのは首相の強い思いだろうが、「ただ、それに続く『過去の歴史に真正面から向き合う』とは果たしてどういうことなのか。おそらく、日本自身がまだその答えを出せていないのではないか」と、図星を突いている(15日付読売)。

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image by: 首相官邸

 

 『高野孟のTHE JOURNAL』より一部抜粋

著者/高野孟(ジャーナリスト)
早稲田大学文学部卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。現在は半農半ジャーナリストとしてとして活動中。メルマガを読めば日本の置かれている立場が一目瞭然、今なすべきことが見えてくる。
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