京大、伊藤忠からの引きこもり。哲学者・小川仁志の波瀾万丈半生

2018.03.05
 

さて、話を戻しましょう。先ほど勉強が好きだったわけではないと書きましたが、国語だけは例外でした。これは作家・小川仁志にとって見逃せない過去です。国語は本当に好きで、成績もよかったし、作文が選ばれたりということもありました。今思うと、文章を書くのは嫌いじゃなかったのでしょう。近年、小学校の時の卒アルを発見し、そこに掲載されていた卒業文集の作文を見てびっくりしました。我ながらかなりのハイレベルだったのです。これに早く気づいていれば、紆余曲折ももう少し楽なものになっていたかもしれません。

その国語のおかげもあって、有名私立高校の進学クラスに滑り込むことができました。京都の洛南高校です。陸上の桐生祥秀選手も出身の学校です。桐生選手があの同じグランドを走っていたかと思うと光栄です。もちろん私は体育の時間にバタバタとペンギンのように走っていただけですが。

その洛南高校の有名大学を目指すクラスに在籍していたので、部活にも入れず、ただひたすら勉強の3年間を過ごします。というのは嘘で、実は中学の頃から始めていたバンド(エレキギターやボーカル)を続けていましたし、女子高に通う年上の彼女までいました。

そうなると普通は成績もやばくなるのですが、試験のたびに順位が出るので、負けず嫌いの私はそのためだけに勉強していました。当時「なんでも一番」とからかわれていたのを覚えています。これは決して一番だったというわけではなく、なんでも一番じゃないと気が済まない面倒なやつという意味です。当然なんでも一番になれるわけはなくいつもストレスを抱えていたように思います。

でも、その性格が功を奏して、なんと京都大学法学部に合格したのです。なぜ法学部か? それはどの分野に進んでも潰しが効くというだけの理由です。哲学には当時1ミリの興味もありませんでした。大学合格という最大の目的を果たした私は、自分へのご褒美?として、4年間の大学生活を100%遊びに費やしました。1989年入学だったので、6月にお隣の中国で天安門事件が起きて、多くの大学生が殺されているのを気に掛けることもなく。ただひたすら合コンやイベントサークルに熱中し深夜はバンドの練習をしていました。大学ではたしか「合コンキング」などと呼ばれていました。

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