臨床心理士が北斗神拳奥義「無想転生」に見た臨床家の理想像

 

感情を一切なくすことなんて人間には不可能ですので、厳密にいえばプラスの感情もマイナスの感情もその拳には現れてこない無想転生を例に挙げることは適していないかもしれません。

ただ意図したり企んだりしたところではなく、相手の心の動きに応じて自然に自分の心が動き、その心の動きのまま言葉を繰り出すことができたら、それは相手の心に優しくすっと届くのではないか。そう解釈してみました。そう考えますと…、無想転生の喩えもあながち間違ってはいない、と感じずにおれません。

いずれにしましても、臨床家として高みを目指す限り、自他共々の哀しみを自分の背中に背負い自分の懐に抱えて生きていくことは必要条件の一つであることは間違いないでしょう。その先に、自分ではまだ見ぬ、それぞれの人の究極奥義を手にすることができるということは「臨床家の理想像」の一つであろうと思います。

まだまだ私は自分の身が引きちぎられそうな質や量の「哀しみ」を背負ってはいません。当然究極奥義体得もまだまだ先の話です。ただケンシロウが哀しみを背負ったのが強敵たちとの戦いの末であったように、我々臨床心理士であれ、獣医師であれ、自分が最も強くなれるのはやはり実戦しかありません

それは本を読むことでも、教師に教えを請うことではありません。実際に人と会うことでしか哀しみを背負うことはできないのです。競走馬がレースで走ることで強くなることとも似ているかもしれませんね。

ただ人と会うことで経験する「哀しみ」は必ずしも相手の哀しみだけとはかぎりません。クライエントさんの「哀しみの物語」を聞くことで自分自身の中にも「自分オリジナルの哀しみが創出されることもあるのです。もっと言えば…、我々が向き合うのは必ずしも「哀しみ」という感情だけではありません。

それはまたいずれかの機会に考えてみたいと思います。

今日は…、なかなか教訓を得られなかった北斗の拳からもようやく気づき、メルマガのネタが得られたよーという話をさせてもらいました。

それではまた。Ci vediamo!!

image by: shutterstock

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【著者】 渡邊力生 【発行周期】 ほぼ 日刊

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