臨床心理士が北斗神拳奥義「無想転生」に見た臨床家の理想像

 

さて私がこの無想転生にぐっと引き込まれたのは、この奥義が臨床家・心の専門家としてお会いする上で究極に目指すべき姿であると感じたからです。

我々の目の前に来られる方は、ご自身で「哀しみ」を抱えて生きておられるという方もおられますが、少なからぬ方は“哀しみ”を抱えきれずにおられます。もっと言えば「哀しみから自由になりたい

我々臨床家はその哀しみを完全に「肩代わり」することはできません。克服し解消するのか、それとも抱えたまま生きていくのか、いずれにしてもその責任を果たすのはクライエントさんご自身です。決断するのもしかりです。

ただその哀しみの生き写しを我々が背負うことで哀しみを共有することが可能です。また一時的に哀しみの一端を担ぐことで、クライエントさんに余裕を持っていただくことはできます。また哀しみを誰かに分かってもらえたという心の深い部分に響くような体験は、クライエントさんの心に、そして外的なものに大きな作用をもたらす可能性があります。

我々はそのお手伝いをしているにすぎませんが、哀しみを背負っていることには変わりません

ケンシロウが戦い倒してきたライバルたちの抱えていたそれぞれの「哀しみ」すらもその血肉に変えて、トキが「哀しみを怒りに変えよ」と言ったこととは異なり、哀しみを哀しみのまま自分自身の中に内包したその姿は、我々臨床家が人の「哀しみ」と出会っていく上で非常に示唆に富んでいると思われます。

さらにはその哀しみの最終的な形として無から生まれる拳があります。これはさしずめ、我々が繰り出すクライエントさんへの言葉がけにあたるでしょう。変に構えている言葉でもなく、相手に一撃必殺的な効果を狙いに狙って言う言葉でもなく、力んで出した言葉ではなくゆるーく空気が流れるように出てくる言葉です。

「なんとかしたい!」
「自分の力で相手を変えたい!」
「相手を制圧したい!」

こういった感情が自分の中に大きく存在している限りは、自分の言葉は相手の心に届く前にガードされてしまう。そういうイメージを私はケンシロウとラオウの戦いに重ねました。

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