池田教授「近いうちに、働いて稼ぐのが善ではない未来が来る」

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「何のために〇〇するの?」と人から聞かれたり、自問自答したり、とかく人間は自分や他人の行動に意味やら意義を求めるものです。今回のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』では、CX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみの生物学者・池田先生が、人間特有の「意味という病」について深く掘り下げています。その内容は、先生の昆虫採集の趣味からアミメアリという不思議な生態を持つ蟻の話、そして「AI」普及後の社会のあり方にまで及びました。

物事にすべて意味があると思うのは妄想である

小学生のころから昆虫採集と標本蒐集を続けているが、よく聞かれたのは「虫を集めてどうするんですか?」という質問である。ベトナムやラオスで虫を採っていると、子供ばかりか大人までも珍奇動物でも見るような眼をして集まってくる。ベトナムのタムダオといった有名採集地では、虫の標本は売れるということが分かっているので、現地の人が標本を持って売りつけに来る。だから彼らにとってみれば、虫を採るのは売るためだ。僕らが彼らの持ってきた虫を買うのは、もっと高く買ってくれる誰かに売るためだと思っているのだろう。では、最後に買った人は何のために虫を買ったのか。そこまでは思い至らないのかもしれない。昆虫蒐集という趣味は理解不能に違いない。

滅多に外国人が来ない田舎であれば、虫を採っていて不審そうな顔をされたら、虫をつまんで口の中に放り込むそぶりをすれば、にっこり笑って納得してくれる。食べるために虫を採るのは理解できるということなのだろう。人間は何であれ、行動に意味をつけなければ納得しない動物のようだ。働くのは金を稼ぐためであり、運動するのはダイエットのため、ボランティアは誰かに喜んでもらうためというわけだ。翻って虫採りを鑑みるに、虫採りは金を稼ぐためにするわけでも、やせるためにするわけでも、他人を喜ばせるためにするわけでもない。機能主義に頭の髄まで侵された人たちは無意味なことに耐えられないのだろう。ホモ・サピエンスがかかる最も普遍的かつ重篤なビョーキだ。

病が膏肓に入ると、死ぬことにさえ意味を求めなければ気が済まなくなるようで、国のために死ぬのは尊いなどとバカなことを言うようになる。機能主義的に言えば、国というのは人々が生活しやすくなるための装置に過ぎないのだから、これは本末転倒であって、この議論が成り立つためには、機能主義を捨てて、国の存在自体が尊いということにしなければならない。しかし個人は実在するが国は幻想であるから、幻想より実在の方が大事だという普通の人の常識からすれば、人間社会にとって最も根源的な存在は個人である。そう考えれば、個人の存在に意味を求めるのは倒錯ということになる。

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