「がんばったね」と褒めれば、その人自身の努力を認めていることになる。気力がある場合「次もがんばろう」と更に成長が望める。全力を尽くした場合「もっとがんばれ」と言っている訳ではないので、他者との競争によるエンドレスの苦しみから抜け出せる。結果がどうあれ、相手の現在そのもの、努力そのものを認められるのである。
もっと身近で日常的な例だと「苦手な野菜を食べられたよ」というようなことを言ってきた場合。「がんばったね」でばっちりである。つい「えらいね」と言ってしまいたくなるが、野菜を食べること自体は全然偉い行為ではないのである。むしろ偉いのは、それを作ってくれた人々や自然の方である(他人のためになる何かを成し遂げた時に「偉い」は使われるべき言葉である。使い方要注意ワードである)。
「がんばる」が否定されがちな傾向がある。楽々、ゆるゆるいきましょうという気風。頑張りすぎてストレスフルな社会に生きている現代人には、必要な考え方でもある。しかし、子どもや若者は、やっぱり「がんばる」ことで成長する(そしてがんばれる人は、何歳でも若者である)。
「のびのびがんばる」ことだってできる。楽しい努力というのは存在する。苦しいが楽しいということも存在する。今流行りのジム通いや市民マラソンランナーなど、その最たる例である。
「がんばったね」は、汎用性の高い、万能の必殺ほめ言葉である。
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