販売ノルマなし。北海道土産の定番「六花亭」驚きのサバイバル術

 

帯広の小さな菓子店から~六花亭が東京に進出しない理由

六花亭の本社には、会社の歴史そのものを表すものがある。それが壁いっぱいに並んだプレート。銅板のプレートに記されているのは六花亭で働いていた従業員の名前だ。「ここまで一緒にやってきた証です。この人たちの人生を借りて、ここまで来たんですから」(小田)

今や従業員1300人の大所帯となった六花亭だが、もとは一軒の小さなお菓子屋だった。創業は1933年。菓子屋、「札幌千秋庵」の帯広支店としてスタート。菓子職人だった小田の父・豊四郎が切り盛りする地域の菓子メーカーだった。

小田が入社したのは1972年。当時、会社は大きな転機を迎えていた。そのきっかけが、国鉄が仕掛けたキャンペーン「ディスカバージャパン」。これで若者の間に国内旅行ブームが起こり、帯広では2つの商品がバカ売れした。それが「愛の国から幸福へ」の切符と、小田の父・豊四郎が作った日本初のホワイトチョコレート。当時、帯広の店には大勢の若い旅行者が詰めかけたという。「朝、シャッターを開けると、パチンコ店の開店を待つようにゴロゴロといた」(小田)という人気だった。

このヒットを機に「千秋庵」にのれんを返し、1977年、社名を六花亭に変更。その記念に作った「マルセイバターサンド」が大ヒットとなり、1980年代には北海道内に出店攻勢をかけて急成長を遂げた。そんな中、小田に六花亭の未来を大きく左右する決断を迫る転機が訪れた。それは東京の百貨店が開いた北海道物産展に出店した時のことだった。北海道土産として名前を売っていた六花亭には人だかりが。その様子を見た百貨店の社長から、東京への出店要請を受けたのだ。小田は「うちにはまだ早いですよ」と答えたものの、心は揺れ動いていたと言う。

「やっぱり“売り上げ”という魅力がチラチラするわけです。『大都会の東京で勝負したい』というのは、男だからありましたよ」(小田)

だが、迷った小田の頭に浮かんだのは父・豊四郎の言葉だった。それは「デキモノと食べ物屋は、大きくなったら潰れる」。食べ物を作る会社は、規模が大きくなりすぎると、目が隅々まで行き届かなくなり、潰れてしまうという戒めだ。「大きくなって人が増えれば、『人のばらつき』は避けられない。10人だとコントロールしやすいが、100人になれば商品の“質が暴れてくる”」(小田)小田は東京には進出しないと決断。その代わりに、品質維持につながる従業員の「質の追求」に乗り出した。

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