日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。著者の山崎勝義さんは今回論じるのは、「人」という漢字の説明について。元々の成り立ちからは誤りでしかない説明を感じ取り、取り入れ、真逆の説明を返す日本人の言語感覚を語ります。
人について
「人」という字は、誰かと誰かとが互いに支え合っている様を表している、などとよく言われるが、これは漢字の成り立ちから言えば全くの誤りである。ただ、このような意義を文字の外から付与し、まるでそれが真理でもあるかのように感じている日本人のメンタリティーには興味深いものがある。
今「真理」とは言ってみたものの、実際には「定型真理」あるいは「道徳的真理」とでも言った方がいいくらいにその運用に関しては応用性が無い。とりあえず一日本人としては、この「人という字は…」噺が始まると、その場にいる誰もが腹の中では「コイツめんどくせえ~」くらいに思っていてくれることを願うばかりである。
さて、改めてこの「人」という字を見ると、その仕事量の分担は凡そ平等とは言い難いものであることが分かる。長い方が一方的に短い方に圧し掛かっているような体である。「長い物には巻かれろ」という諺を持つ日本人としては、こちらの方が遙かに真理に近いように感じるのだがどうか。少なくとも偽善的な嘘っぽさはなくなるであろう。
となれば「人」という字は、長いもの・大きいもの・強いものが短いもの・小さいもの・弱いものに一方的に支えられて楽をしている様を表し、さらにそれを説明するのに決して片務的とは言わず飽くまで双務的な支え合いであると言い張るべきものである、と記述できる。
このように思う人は少数のひねくれ者ではなく、今や多数派なのではないか。実際、言語表現の場においては近年こちらの皮肉的な用法の方が多いように感じる。
視覚情報としての文字、即ち活字においてはどうだろう。最近では文章を手書きすることは寧ろ珍しく、ほとんどの人がワープロソフトを使うからこちらの方が見慣れている筈である。
さて、その「人」だが、見ての通り右側の/も左側の\も平等に仕事を分担している。そればかりか、長短の差さえ無いように見える。これだと「入」と弁別する特徴が無くなってしまうのでは、と思ってしまうが、それは「入」上部の横棒が担っているようである。
この双務的な活字体「人」の字は、何らかの理由(例えば、版の制作や植字の都合)でこうなったのであろうが、最初に「支え合い」の意を読み取った人はことによるとこの活字体の影響を受けたのかもしれない。
ともかく一旦は綺麗ごとを綺麗ごととして迎え入れ、その実、皮肉的意義付けを怠ることをしなかった日本人の言語感覚には脱帽するばかりである。
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