「百円でええよ」が転機に。ダイソー創業者・矢野博丈の波乱万丈

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日本のみならず、今や海外にも2,000店舗以上を展開する100円ショップの雄・ダイソー。その創業者である矢野博丈氏のユニークな人柄もまた、高い人気を誇っています。そもそも彼は、どのようなきっかけで100円ショップを始めたのでしょうか。今回の無料メルマガ『おやじのための自炊講座』では著者のジミヘンさんが、矢野氏の一代記をダイジェストで紹介しています。

百円の男・矢野博丈

皆さん、お元気ですか。ジミヘンです。

「100円でも、あなたが思っている安もの売りとは違うんですよ。同じ100万円でも、100万円の車は安ものだけど、100万円の家具は高級品ではありませんか。うちは100円でも高級品を売っているんです。ボロじゃ、安ものじゃ、言わないで欲しい」

書店で何気なく手に取った大下英治著『百円の男 ダイソー矢野博丈』の中の一節である。今や日常生活になくてはならない存在になった100円ショップ「ダイソー」をゼロから創り上げた男・矢野博丈の一代記。

一度だけテレビで矢野社長を見たことがある。広島県出身の朴訥としたおやじといった風貌の社長は、「こんなに大きな会社になるとは思わなかった」「いつつぶれるか分からないので、社員には毎日そう言っている」と、意外な言葉を吐いた。大企業のトップになった今でも、質素な暮しをしている。不思議な経営者だなという印象が残っている。

「インフレになって原価が上がって、運賃が上がって、人件費を払って、倒産するかもしれない。質素にしておこう。今は良くても、インフレが来たら一発で倒産だから」

矢野博丈は、1943年中国・北京で8人兄弟の末っ子として生まれた。親が与えた名は「栗原五郎」であるが、後に婿養子になり、下の名も変えた。祖父は広島県の大地主であり、父親は医者という恵まれた環境であったが、敗戦によって祖父は農地改革で没落、父は貧しい家庭の患者から治療代を取らなかったので、貧乏医者になった。

矢野は学生結婚をした妻の実家のハマチ養殖業を継いだが、うまくいかず倒産し、医者であった兄に金を借りたまま夜逃げする。東京へ出た矢野は、さまざまな職業を転々とした後、「バッタ屋」という日用品の移動販売を知る。それは、メーカー在庫品など売れ残り商品を安く売る商売で、面白いように客が集まり、売れた。ある時、あまりの忙しさに思わず口にした「100円でええよ」が転機になる。

100円均一で売る商売を思いついた彼は、仕入れのスタイルを変えた。利益を取るのではなく、客に喜んでもらうため、売価100円の範囲で可能な限り質にこだわった商品構成に変更した。1987年スタートした「100円SHOPダイソー」は、バブル崩壊以降売り上げを伸ばし、破竹の進撃を続ける。大創産業の直近の売上高は4,757億円、店舗数は国内3,367店、海外2,175店にのぼる。

「自分の能力がないのに、会社がこんな規模になってしまって、なんだか申しわけない気持ちでいっぱいだ。ありがたいを越えて、申し訳ないというのがじつのところだ」

100円の男・矢野博丈は、もう潰れるんじゃないか、今日もそうつぶやきながら商品のあいだを駆けまわっている。

image by: Tang Yan Song / Shutterstock.com

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【著者】 ジミヘン 【発行周期】 週刊

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