日本中の多くの地域で年に3回、児童生徒やその家族を一喜一憂させるものと言えば、通知表ではないでしょうか。その「学習状況の評価」について否定的な味方を示すのは、現役小学校教師の松尾英明さん。松尾さんは今回、自身の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』にその理由を記すとともに、学校が人の評価を気にする土台を作ってしまっている現状に対して苦言を呈しています。
評価を気にする子どもを育てない
いい人に見られたい。人から良く思われたい。誰しもが心の底にもってしまう願望である。
どこからこうなってしまうのか。
赤ん坊の頃は、みんないい。欲求のままに、全てを素直に出している。相手の都合も関係なく、泣きわめく。伝えるための言語もなく、それしか生きる術がないからである。それを受け容れてもらえて、愛情のベースができる。
この赤ん坊の頃に虐待を受けた子どもたちは、この時点で欲求が出せなくなる。泣いたらひどい目に遭う、あるいは無視されるとなると、泣かなくなる。自らの欲求を外に出さなくなる。
一生懸命笑いかけても、スマホを見ている親。やがて、無駄だと学習し、目を合わせなくなる。笑わなくなる。恐ろしいことである。
さて、さすがにこんなひどい目には遭っていない、という人が大半だろう。そうなると、幼児期から先の問題である。
親の要望を何でも受け容れてきた子ども。親の願望、欲望を、自分の願望なのだと刷り込まれてきた子ども。親に認められたくてがんばり続けた子ども。この時、親の要望にそぐわないのは「悪い子」である。
果たして、それは子ども自身の願望なのか。大人に問いかけるなら、自分の願望だと思っているものは、本当に自分の願望なのか。子ども時代から周囲の評価に踊らされて、他人の価値観を刷り込まれていないか。
私は学校の「評価」に関することに、関心が高い。拙著『捨てる!仕事術』でも通知表についての項目は力を入れて書いた。なぜならば、子どもたちは、この評価にとても敏感だからである。
平たく言うと、子どもの学習状況にABCを付けて通知表を渡すこと自体に反対である。そんなことしなくても、ただでさえ評価する側とされる側という力関係があるのに、それに拍車をかける。評価を気にして動く人間を育てることは、教育的にマイナスしかないと考える。だから、どうしてもつけるなら記述欄なぞどうでもいいから、全部評定Aになるようにせよ、と書いたのである。
一方で、指導に対して評価は必要なのである。つまり、これが良くてこれができていない、ということのラインの明示である。常時善導を基本とするのだから、基準をもたない子どもにそれを示すことは意味がある。つまり、評価されるためではなく、子ども自身が評価を利用するためだけに必要なのである。そして、その基準を示したからには、越えるところまで見届ける必要がある。つまり、評価した後に評定までつけるなら責任をとってAをつけよ、というこである。
自分の評価が常に数値で示され、それに一喜一憂する世界。周りもそれに喜んだり落胆したりする。できたら良い子、できなかったら悪い子。これが幸せからほど遠いのは明白である。
学校が、人の評価を気にする土台を作ってしまっていないか。それは、小学校に限らず、大学まで全ての学校に言えることである。
日本という国が自由になるには、この辺りの教育における意識改革が必要ではないかと考える次第である。
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