京大・藤井聡教授が憂慮。頭の良い言論人さえ気づかぬコロナ自粛の不条理さ

 

だから、どれだけ分かり易く、本来ならば耳に入りやすい形で緊急事態宣言や自粛や時短の「無用さ」、あるいは、その「弊害の深刻さ」と説明しようとも、思考が停止してしまっているので、人々はそれに耳を傾けようとはしないのです。

例えば、当方が昨年から始めた「東京ホンマもん教室」(TOKYO MX)というTV番組は、Youtube配信も行っているのですが、その中でダントツでアクセス数が少なかったのが、コロナ自粛の弊害を解説した動画でした(※「コロナが導く社会崩壊」は「25万閲覧」しか行かなかったのですが、それ以外のタイトルが明記された回は全て30万~50万閲覧に到達しています)。

これは要するに大衆世論は、「緊急事態宣言で自粛・時短して、恐ろしいコロナを乗り越えよう!」という「ノリ」とは異なったものに対しては、どうしても「違和感」(あるいは、認知的不協和)を感じてしまい、その話を聞こうとはしなくなっているわけです。

しかし……22日に緊急事態宣言が解除されました。これはつまり、「緊急事態宣言」という言葉のマジック、魔法が無くなり、思考停止に陥っていた人々が正気を取り戻し、コロナについて冷静に考え始めることを意味しています。

当方は、このタイミングをずっと待っていました。

人を説得する時に大切なのは実は、その説得の内容もさることながら、説得の「タイミング」なのです。

例えば、「論語」の有名な一節に「君、十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。」というものが有りますが、これは、君子中の君子(つまり、チョーーー立派な人)である孔子の人生を表現したものですが、その次の60歳の時に孔子がたどり着いた境地というものが、「六十にして耳順(したが)う」というものなのです。

つまり50代の孔子は「惑わず」「天命を知っていた」にも関わらず「耳が順(したが)っていなかった」、つまり「人の話を素直に聞けなかった」のです。ところが、ようやく60歳まで年齢を重ねた時点で初めて、人の話を聞くことが出来るようになったわけです。

もうこの話だけでも、人の話を素直に聞く事がどれだけ難しいか、ということが分かりますよね(ちなみに、孔子は、「七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず」とさらに続け、その数年後に永眠。つまり、あの孔子ですら70才になるまでは気を抜くと「失礼」な事をしたり「不埒」な事をしてしまうことがあり得た訳ですから、正しく生きるとはかくも難しいことなのだなぁと思わざるをえませんねw)。

閑話休題……だから、人に分かって貰う事は簡単なことじゃないのであって、どれだけそれが「正論」であっても、「説得力のある話」であっても、ダメなものはダメなのです。というかむしろ「正論」でかつ「説得力」があれば有るほど、時に人はより強く反発し、全く話を聞いてくれなくなる、ということが起こり得るのです。

ましてやコロナ問題においては、コロナ脳に陥った人々は、本気でコロナのことを怖がっているのであり、政府の緊急事態や某教授のようなコロナがヤバイという話を「信じたい」という欲求すら持っているような心理状態に陥っています。

そんなコロナコワイなコロナ脳な人達に、「コロナは怖くない」とか「コロナ自粛は効果無い」なんていう「正論」をどれだけ「説得力」ある形で「科学的」に言って聞かせたところで、彼等は納得するどころかますます反発し、反感をもち、挙げ句に「憎悪」すらしてしまう異常な心理状況にすら陥ってしまいます。

ですから、そういう時には、正当であったり科学的であったりしながら「説得」を試み続けることはかえって逆効果になるわけです。

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