例えば、共学校だと女子は部活のマネージャーなどに回りがちだが、女子高なら主役になれるというような、それこそ50年前に言われていたような話が、今でも言われていたりします。
一方で男子校については、現代では「エリートは男性に限る」というような保守的な考え方はさすがに過去のものとなっています。その代わりに、「一般に男子は女子より精神的な成熟が遅い」ので、女子と比べて「萎縮しないで伸び伸び育てる」には男子校が良い、などという「理由付け」がされているのです。毎年1月から2月の受験シーズンになると、塾チェーンの資金に影響された「教育評論家」が、首都圏の一貫校受験を煽るわけですが、この「男子は成熟が遅いので、女子と隔離すべき」というトンデモ理論は、結構親に受けているようです。
更に大昔から伝統的に存在するのが、高校生の男女交際は「受験勉強に弊害があるので禁止」するという考え方です。男女が交際するとお互いにそのことばかり考えて勉強に集中できない、だから高校は別学にするというわけです。本人たちはともかく、親とか祖父母の世代は真剣にそう考えるらしく、一般的に受験校イコール別学ということになっているわけです。
しかしながら、こうした考え方は国際的に見れば非常に問題が多いように思われます。確かに男尊女卑的な偏見から女子を守るための別学というのは理解できなくもないわけです。ですが、男女ともに実社会に出ればそこには男も女もいるし、それ以前に様々な人種など多様な世界があります。仮に日本で就職するにしても、その前に日本の大学に行くにしても、多様性というのは昔より進んでいます。
そうした中で、現代社会の国際的なエリートというのは、精神的な成熟とコミュニケーション能力が問われるわけで、十代に「マセた女子から隔離」して育てるなどというのは、全くもって回り道です。同国人の異性とのコミュニケーションが出来ない人間には、そもそも国際社会で生きてゆくことなど不可能です。
そもそも、男女交際についても、アメリカの高校を見ていれば、勉強熱心な学生でもみんな交際のパートナーがいるし、パートナーとの真剣な会話を通じて自分の進路や専門性を考えたりしているわけです。そうした経験を高校生の時に積んできた人間と、男女交際を禁止されて育ち、コミュニケーションスキルの遅れを抱えて育った人間では、ビジネスにしても社交にしてもどちらが「パワーエリート」になれるかというのは一目瞭然だと思います。
例えば、パワーカップルという言葉があって、日本では「夫婦合わせて収入が1千万超え」などという狭い意味で使われています。ですが、例えば歴史上であれば、キュリー夫妻とか、クリントン夫妻とか、非常に知的な業界で切磋琢磨することに男女の感情が乗っかったカップルというのが歴史を動かしているわけです。
そのような高度な知識人同士のカップルが日本ではなかなか生まれない背景として、知識と価値体系を急速に吸収する思春期を「一緒に育つ」経験の有無というのはとても重要だと考えます。そう申し上げると、昨今の首都圏のエリート高校生は、みんな「鉄緑会」などの塾に行っているので、そこでちゃんと男女が出会っているという反論がありそうです。ですが、塾と高校では活動の範囲が異なります。
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