文学的「死と生の逆転」
原因と結果を逆転させて新しい文学の世界観を生み出したのが、寺山修司です。自らの死についても、次のように表現しました。
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町字橋本の
小さな陽あたりのいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
*踊り字部分は、通常の平仮名に直しました。
(1982年9月1日付朝日新聞夕刊『懐かしのわが家』)
生きることは、不完全な死体を完全な死体に変える行為だとする発想は、僕たちが普通持っている原因と結果を逆転させてみせます。
完全な死体になったときに見える限界と無限界
ことばによる表現の制限を取り払った一例として、文学の可能性を見せるのです。
しかし、完全な死体になったとき、と寺山は続けるのです。
外に向かって育ちすぎた桜の木が内部から成長をはじめるときが来たことを知り、そして次のように結びます。
世界の涯てが自分自身の夢のなかにしかないことを知っていたのだと。
桜に象徴される現実世界の限界と、夢にのみ存在する無限界の世界を、自らの死に沿わせて描いたのかもしれません。
これが発表された翌1983年5月4日、寺山は世を去るのです。
この記事の著者・前田安正さんのメルマガ
image by: Shutterstock.com