千家流茶道の開祖である千利休に激怒し、切腹を命じた豊臣秀吉。実は、この頃の秀吉は以前と比べて人が変わったようになっていたといいます。なぜ、そんなことになってしまったのか、それを紐解くヒントが詰まった一冊をメルマガ『1分間書評!『一日一冊:人生の智恵』』の中で紹介しています。
秀吉の体調が悪くなったとたん「人が変わった」原因は?【一日一冊】謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点

新 晴正 著/青春出版社
歴史小説「利休にたずねよ」を読んでいるとき、千利休についての記載があったので手にした一冊です。
秀吉が利休に切腹を命じた理由については、表向きには大徳寺の門の上に利休の木像を置いたことが不敬とされたというものです。
異説としては、利休が茶器を高額で売ったから、秀吉が利休の娘を側女に所望して断ったから、秀吉の朝鮮出兵に反対したから、堺の支配について秀吉と対立したからなどがあるという。
このように数多くの説が出ていますが、真相は秀吉にしかわからないのです。これが歴史小説「利休にたずねよ」が書かれた理由なのでしょう。
謹慎から切腹へ…千利…・七人の弟子のうち五人までがカトリックと深いかかわりを持っていた…さらに、利休の後妻と娘もまたキリシタンだったと言われている(p80)
秀吉は晩年、体調を崩すことが多く、利休や甥の秀次に切腹を命じたり、キリシタンを弾圧したり、朝鮮出兵を行うなど、人が変わったようになりました。
この本ではキリシタン弾圧については、スペイン人がキリスト教を布教し、神社仏閣を破壊し、融和しようという姿勢がないこと。日本人を買い、奴隷として国外へ多数連行していること。キリシタン大名が長崎や浦上の地をイエズス会に寄進してしまっていたことから日本の植民地化を防いだと評価しています。
キリシタン個人から見れば弾圧ですが、国家や組織のレベルと見れば、日本をキリスト教により支配することができなくなり、作戦失敗ということなのです。







