松平 「そんな彼の人生をざっくり振り返りますと、まず、幼少期。家康は、2歳で母親の於大の方が父親の松平広忠と離縁したために生き別れになりましたし、6歳からは人質になりました。アゲインストの風の中の幼少期でしたね。
その後も三方ヶ原の戦いでは負け、本能寺の変で命からがら逃げ帰り、彼は徳川300年の長期政権を打ち立てた大成功者といいますが、その半生はほとんど負けと失敗の歴史です。その逆境が将来ステップアップする一つの要因になるんですけれども」
童門 「家康という人物についてまず理解しなければならないのは、そういう過酷な人生を歩みながらも、彼が決して無学な人ではなかったということです。
今川家の人質になった時、今川家のブレーンであった太原雪斎という住職がいました。彼が少年時代の家康に『論語』『孟子』といった思想書から、『孫子』『六韜』『三略』のような兵法書まで叩き込むわけです。これが家康の人格の土台になったことは間違いありませんね。
雪斎にどういう意図があったのかは分かりませんけど、場合によっては、この子のほうが義元より天下のためになるかもしれないと思っていたんじゃないかな」
松平 「あぁ、見込みがあると」
童門 「義元はちょっとぐうたらなところがあるし、名門で生活がお公家様みたいになっていて、雪斎としてはちょっと歯ぎしりするような思いがあったんじゃないかと」
松平 「家康の人質時代は今川義元が桶狭間の戦いで倒される1560年まで続きましたね」
童門 「あの時は完全に今川家の一武将でした。それで、義元の息子の氏真に、敵を討ちましょうと言うんですが、氏真が乗らない。優柔不断な、不肖の二代目でね」
松平 「家康はやむなく、義元に殉じて大樹寺というお寺で切腹しようとするけれども、住職の登誉上人が思いとどまらせるんですね。『あなたはこの戦乱の世を終わらせるために生まれてきたんだから、ここで死んではいけない』と」
童門 「そうそう、もっと大きな志を持ちなさいとね」
松平 「その時から家康はあの『厭離穢土 欣求浄土』という旗印を、戦の時に必ず携行するようになったわけです。
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