日本が“貧困”から脱出するヒントは独自のファッション「きもの」にある訳

 

2.高度経済成長とDCブランド

次に大衆文化が盛り上がったのが、1954年から1973年まで続いた高度経済成長期です。1950年の朝鮮戦争特需により、1953年後半には戦前の最高水準を超えました。1956年には経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言しました。1960年、池田勇人内閣は、10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表しました。

1964年には東京オリンピックが開催され、世界から多くの人々が来日しました。1966年6月30日にザ・ビートルズ来日、1967年10月18日にミニスカートの女王と言われた英国のファッションモデル、ツイッギー(当時18歳)が来日しました。ツイッギーを日本に招待したのは、東レの遠入昇さんで、一説によると個人で経費負担したそうです。

ビートルズもツイッギーも当時の最新ファッションのシンボルでした。その影響もあり、日本でもグループサウンズブーム、ミニスカートブームが起きました。

1970年は大阪万博が開催された年ですが、同時に日米繊維交渉が始まった年でした。1968年にニクソン大統領が繊維規制を公約に当選しました。1970年から71年まで日米繊維交渉が続き、最終的に米国政府の要求通り、日本は対米繊維輸出を自主規制することとなりました。

日本の繊維産業は輸出から内需への転換を余儀なくされ、オーダーメイドから既製服へと転換することになります。米国の既製服産業のノウハウを日本に紹介し、大量生産のアパレル産業が誕生したのです。

1970年は、高田賢三がパリで最初のコレクションを発表し、作品は『ELLE』の表紙を飾りました。その後、高田賢三の成功に刺激された、同年代の日本人デザイナーも次々とデビューし、74年には東京コレクションの前身であるTD6(松田光弘、菊地武夫、金子功、コシノジュンコ、花井幸子、山本寛斎)が最初のコレクションを開催しました。ここから、日本のデザイナーズブランドブームが始まりました。

80年代になると、全国的な不動産開発ブームが始まり、駅ビル、ファッションビル、地下街や商店街の整備が行われ、百貨店が次々とリニューアルしました。そこにDCブランド(デザイナーズ&キャラクター)がテナントとして入居し、急激に売上を伸ばしました。

日本のバブル景気のピーク1979年に出版されたのが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』でした。まさに、日本経済の急成長と共に、日本オリジナルのファッションも急成長したのです。この勢いは、バブル崩壊後の90年代半ばまで続きました。

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