タワマン住まいが危ない。高層階を揺らす「長周期地震動」の階級

 

研究室や会議室、トイレなどに怪我人が取り残されているかもしれないので、職員さんたちを案内して引き返し、各部屋をくまなくチェックして廻りました。上層階の被害状況を見ると、さすがに皆、驚きを隠せませんでした。そして、全員が無事避難したことを確認し、これだけの物的被害の中で、一人の負傷者も出なかったことに、一同感謝しました。

研究室のある大学棟は7階建てでしたが、地下の2階分がドライエリアで囲まれているため、実質的には9階建ての構造になっていました。そして、いわゆる「柔構造」の設計になっていたのでしょう。ビル全体の躯体は地震のエネルギーを逃がして無事でしたが、その分「長周期地震動」で上層階ほど大きく揺れました。

たまたまその時、友人の先生が屋外にいて、地震発生時に大学棟を見上げると、「まるでプリンか何かのように」ビル全体がクネクネと揺れていたそうです。

長周期地震動の波長とビルの構造がマッチすると、震源から離れた震度の小さな地域でもビルが大きく揺れることを、私は身をもって体験しました。もっとも、新宿の高層ビルで仕事をしていた知人は、もっと酷い目に遭いましたが…。

その後、学生の点呼を終え、登校中の学生が意外に少なかったことも確認できたので、一同は取りあえず寒いグラウンドから暖かい食堂へと移動しました。K学園は災害に備え、全在学生分の毛布や非常食糧を備蓄してありましたから、交通機関は麻痺しましたが、宿泊の心配はありませんでした。その日、大学に宿泊した教員や学生の話を聴くと、ちょっとした「ゼミ合宿の気分」だったそうです。

そして4時前には、理事長以下教職員一同は、本部(全く無傷)に集合していました。そこで目にしたテレビの大画面には、被災地上空を飛ぶヘリコプターからの映像が映し出されていました。

生の中継映像でした。

墨のように黒い津波が、まるで奇怪な生き物のように平地を進んで行きます。不気味な黒い津波に、次々に車が飲み込まれ、人が飲み込まれて行きます。私たちは、呆然として言葉も無く、この非現実的な恐ろしい光景をじっと見つめていました。

その後、学会出張などで研究室を留守にしていた先生方が次々に帰って来ました。皆、あまりにも変わり果てた研究室の姿に、しばらくは立ち尽くしていたものです。中には、トラウマを抱えて鬱(うつ)状態になり、母国のアメリカに1年以上帰ってしまった先生もいました。

そして、大変だったのが後始末。ボランティア無しで研究室の後片付けをするのには、およそ10日を必要としました。各研究室から出た廃棄物の山が、しばらくは廊下を占拠していましたが、それでも何とか、新年度には間に合いました。

3月11日は、私の息子の誕生日です。震災で、お祝いの夕食も吹っ飛んでしまいました。それに加えて、その年の月末には、かねて入院中だった父が亡くなりました。研究室の後片付けが終わってすぐに、私たち家族は父を送り出すことになったのです。

震災死の影響で、公営の火葬場には空きがありませんでした。仕方なく、それなりのお金を用意して、何とか私営の火葬場を見付けてもらったのを憶えています。

4月早々、葬儀を終えた翌日には、大学の入学式やオリエンテーションが始まりました。こうした新年度の行事も、「余震対策」で講堂が使えないといった具合の異例続きで、教職員は調整に追われました。私は、自分の喪失感を心のどこかに封印したまま、忙しさに紛れていました。

この時の妙な複合トラウマは、今でも未消化のまま心のどこかに引っ掛かっています。

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