実家倒産、母の急死、世界恐慌…波乱万丈の天才クリスチャン・ディオールを支えた「大切なモノ」

MOSCOW, RUSSIA - AUGUST 10, 2021: Christian Dior Paris brand retail shop logo signboard on the storefront in the shopping mall
 

デザインやデッサンの基礎から学んだディオールは水を得た魚のように何百枚もデッサンを描きます。すると、幸運の女神が微笑みました。破産寸前に知人に預けていた絵画が高値で売れたのです。デザインに専念できるだけの生活資金を得ることができました。彼は夢中になってデッサンを描き、友人たちの助言を受けます。

えてして才能あるクリエイターは自分に自信があり、他人の助言に耳を貸さないものです。耳を貸さないどころか助言相手を罵倒したり、絶交したりすることも珍しくはありません。しかし、ディオールはお坊ちゃん育ちゆえの素直な性格で、多くの助言を受け入れデッサンの質を高めてゆきました。そんな彼ゆえ、友人たちも応援をします。メゾンや服飾関係の雑誌に紹介してくれました。

ファッション業界において、デッサン画家に過ぎなかった者が一流のメゾンにデザイナーとして雇われるなど異例中の異例でした。

ところが、そこにまたも大きな障害が生じます。第二次世界大戦です。1939年、ナチスドイツと戦争状態になったフランス陸軍からディオールは徴集されました。翌年、ドイツ軍によってパリは陥落、間もなくフランスは降服しました。フランスはナチス占領地区と非占領地区に分割(1942年には全土が占領される)されました。ディオールは非占領地区で従軍していたため、一旦、南フランスで暮らしました。

やがて、リュシアン・ルロンが主宰するメゾンに雇われます。ルロンはクチュール(仕立て業者)協会の会長を務める実力者でした。ルロンのメゾンにはピエール・バルマンという優秀なデザイナーも属していました。ディオールはデザイナーとしてバルマンと切磋琢磨します。

ナチス占領の悪夢から解き放たれ、第二次世界大戦が終わると、自由な仕事ができると喜んでいた矢先、ディオールは衝撃を受けます。バルマンがルロンのメゾンを辞め、独立してしまったのです。バルマンはディオールより9つ下でした。独立すると多くの顧客を掴み、独立は大成功でした。ディオールの胸はざわめきます。いくら自由にデザインができるといっても、ルロンの下でのこと。あくまでルロンの気に入った範囲での自由なのです。

すると、翌年、彼を繊維業界の大物、マルセル・ブサックが後援し、メゾンを立ち上げます。ディオールは42歳でした。独立に当って彼は躊躇います。多くの友人たちに相談をしました。友人たちは諸手を挙げて賛成です。ディオールはブサックのお金と友人たちの励ましにより独立しました。

独立するとディオールは才能を発揮、1947年、最初のコレクションを発表しました。以来、斬新なデザインによって女性の心をつかみ、1957年に死去するまでパリのオートクチュール界に君臨しました。クリスチャン・ディオールは大勢の友人に支えられた天才です。彼の才能、人柄が友人を集め、才能を開花させました。

ディオールの人生とブランドは彼の才能と友情の産物だったのです

image by:KatMoy / Shutterstock.com

早見俊この著者の記事一覧

歴史、ミステリー四方山話、思いつくまま日本史、世界史、国内、海外のミステリーを語ります。また、自作の裏話なども披露致します。

無料メルマガ好評配信中

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』 』

【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

print
いま読まれてます

  • 実家倒産、母の急死、世界恐慌…波乱万丈の天才クリスチャン・ディオールを支えた「大切なモノ」
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け