教員のなり手自体がいないのではなく、確実にいるのである。教育学部に行けば、熱い教員希望者はしっかりと存在する。教育学部でも教員にならない人が増えた理由は、そもそもの入学時の動機の違いも大きいと思われる。大学に入るのが「普通」の時代で、希望する大学名で入ったのがたまたま教育学部、というのは珍しくない。「実習単位だけ欲しい」という学生が一定数いるのも至極当然の流れである。そんな人の中にも、実習を通して教員になろうと変わる人もいるから面白いのである。
ただ、急に必要な数が多すぎる。何年もがんばって受け続けていた人が、これまでより多く受かっていくということである。これを続けている内に受験者が前より不足し始めるのは至極当然の流れである。
困るのは、これで「教員不人気」の誤ったイメージが流布することである。「なりたい人がなりやすくなった」というのが実際であり、言うなれば波が来ており、チャンスである。この誤ったイメージは、採用側にとって確実に不利益である。そして、現場教員のモチベーションにも悪影響である。
小中学校の段階の子どもたちを見ても、教師になりたいという子どもは一定数いる。私の経験上、どの学年であっても「将来先生に」という子どもが一人もいなかったという年はない(自慢のように誤解されそうなのできちんと伝えるが、私が担任する前から既にそうなのである)。35人学級に1人いると考えると、全体の3%弱である。かなりの割合である。
大切なのは、ニュースやSNSによる単なるイメージに過ぎないことを、事実として捉えないことである。教員という職業が不人気になったのではない。必要数が多すぎて、数が足りていないのである。ここは是非強調したいところである。
楽な仕事とは当然言わないが、世の中に元々楽な仕事なんてない。仕事をする側に立つ以上、誰も楽しませてはくれないのだから、大変な中にやり甲斐を見出すしかない。何かをしてもらう側の楽しみと、何かをする側の楽しさは、異質である。全ての主体は、自分である。主体性は、子ども以上に、働く大人にこそ必要である。
『不親切教師のススメ』では、ここを強調している。先生がやりすぎて疲弊していてはダメなのである。教室の学びの主体は子どもなのである。こちらが主体性をもつべき点は、子どものお世話活動ではない。子どもの成長にとって何が最も大切であるかを見極め、必要なことをし、余計なことをしない。
「先生になりたい」という願いをもつ人たちが、今後も希望をもてるような仕事をしていきたい。
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