皇族でただ一人「朝敵」の汚名を着せられた、輪王寺宮能久法親王の強い“思い”

 

慶喜は御三家水戸徳川家出身です。水戸家は大日本史編纂を始めた光圀以来、尊皇の家風、慶喜も尊皇家でした。そのため、朝敵になったことに激しく動揺し、戦意を喪失します。強硬派の幕臣たちが声高に主張する江戸城に拠って官軍を迎え撃つなど、微塵も考えず朝廷に対し反抗の意思はないと示すために江戸城を出て寛永寺で蟄居謹慎したのです。蟄居謹慎の言葉通り、慶喜は大慈院の奥座敷で月代も剃らず正座をして過ごします。蟄居するだけでなく、朝廷に対し恭順の意思を訴えたいと輪王寺宮に嘆願しました。

慶喜は宮の他にも孝明天皇の妹で十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮にも頼みました。和宮は徳川家の存続の願いを文にしたためます。自分の命と引き換えにとまで書きました。和宮はこの文を慶喜が書いた嘆願書と共に側近く仕える土御門藤子に託しました。藤子は和宮の使者として東海道を進み先鋒鎮撫総督橋本実梁と面談します。橋本は和宮の母の兄の子、つまり従兄弟に当たります。橋本は伊勢の四日市に本営を置いていました。

藤子から渡された和宮の書状を読んだ橋本は感銘を受けます。徳川家存続を願う和宮の心情を橋本は汲み取り、京に上って朝廷に和宮の書状と慶喜の嘆願書を提出するよう勧めました。藤子に異存があるはずはなく、直ちに京に向かいました。藤子が提出した和宮の書状と慶喜の嘆願書を公卿たちは読み、協議しました。協議の結果を岩倉具視が藤子に伝えます。慶喜公が誠意をもって恭順謝罪をするなら徳川家の存続も不可能ではない、と岩倉は和宮様にお伝えするよう告げました。藤子は安堵して江戸に戻ります。

ところが……

慶喜追討に軟化の姿勢を見せた公卿とは違い、薩摩藩は断固慶喜を討つべしという強硬姿勢を崩しませんでした。

朝廷、官軍の考えが判明しない不安から輪王寺宮は、自らが東征総督有栖川宮熾仁親王を訪ねようと思い立ちます。有栖川宮は駿河の駿府城まで軍を進めていました。輪王寺宮は自身と慶喜の嘆願書を携え、輿に乗って寛永寺を出発します。慶応四年、二月十九日のことです。

宮が有栖川宮を訪ねるのは慶喜への同情というよりは、江戸の町と民を戦火から守りたいという切なる思いからでした。上野周辺の町人たちは宮を慕い、日ごろから魚を届けてくれ、宮も民に親しみを感じていました。江戸の町を戦火に巻き込んではならない、民の暮らしを奪ってはならない、悲壮な決意で輿に揺られ、寛永寺の執頭職にあった覚王院と僅かな供回りに守られて駿府を目指しました。

途中、雨風に祟られ、東征する官軍の兵士たちの好奇な目に晒されながら駿府城の有栖川宮と対面します。藁にもすがる思いで対面した有栖川宮の態度は冷ややかでした。有栖川宮は和宮と婚約をしていましたが、公武合体の声が高まり婚約は破棄されたという徳川家への遺恨があったのです。加えて参謀である西郷たちも慶喜許さじ、切腹をさせ江戸城は破却すべしという強硬姿勢を崩しませんでした。

以下、次号に続く。

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