「朝敵」となった唯一の皇族・輪王寺能久法親王は日清戦争後なぜ台湾へ行ったのか?

 

江戸城に入った官軍は彰義隊の解散と輪王寺宮の寛永寺退去を要求しました。官軍から派遣された使者の応接に当たった覚王院は駿府城での官軍側の輪王寺宮に対する不遜な対応に憤っていましたので、宮は病だと言って取り次がず、官軍側の要求を握りつぶしたのでした。勢いを増した彰義隊は寛永寺に根を下ろし、官軍にとって大きな障害となります。江戸を完全に支配下に置かないことには奥羽鎮定を本格化できません。

こうして五月十五日、官軍は彰義隊討伐のため寛永寺攻撃にかかります。彰義隊は奮戦しましたが、最新式の銃とアームストロング砲などの火力によって制圧され、輪王寺宮は命からがら寛永寺を落ち延びました。江戸市中を逃れ、榎本武揚の艦隊で奥羽まで行きます。奥羽の地では奥羽の諸藩に越後長岡藩が加わり、奥羽越列藩同盟が結成されていました。列藩同盟は輪王寺宮を歓迎し、盟主に頂きます。宮も官軍の行いを幼少の天皇を利用した薩長の陰謀だと怒り、討伐の令旨を発しました。

こうして輪王寺宮は心ならずも朝敵の汚名を着ます。江戸の町と民を守りたいという慈愛の気持ちが、時代の嵐に流されて皇族でただ一人の朝敵となったのです。

明治維新後、賊徒の汚名を着たまま三年間実家伏見宮家で蟄居した末にようやく許されます。その間、実父伏見宮邦家親王との面談は叶いませんでした。寛永寺での慶喜の蟄居を遥かに上回る過酷な謹慎生活を宮は送りました。その間、覚王院は餓死します。官軍の取調べを受けた覚王院は自分の頑なな官軍使者への応対を悔い、輪王寺宮に迷惑が及ばないよう責任を一身に引き受け、出された食事に一切箸をつけずに餓死を選んだのでした。

苦闘の蟄居謹慎が明け、輪王寺宮はドイツに留学、陸軍軍人としての道を歩みます。

そして日清戦争、朝敵の汚名を注ぐべく宮は決意します。近衛師団長となった宮は日清戦争後、清国から割譲された台湾に遠征しました。台湾で起きた暴動を鎮圧するためです。後方の柳営にお留まりくださいという周囲の声に耳を貸さず、宮は陣頭に立って険しい山々、密林を進軍、暴動鎮圧を成し遂げました。しかし、奮戦の余りマラリアに罹り台湾の地で亡くなります。日本の人々は戦地で客死した古の英雄日本武尊になぞらえ、宮の死を悲しみました。

宮は国葬で葬られます。

朝敵となったただ一人の皇族、北白川宮能久親王の逆転人生の締めくくりは古の英雄を彷彿とさせるものでした。共に戦地で悲運の死を遂げたことに加え、父景行天皇から疎まれた日本武尊、朝敵となった親王という境遇ゆえかもしれません。日本武尊は父景行天皇の愛情を得んと、親王は朝敵であった自分を登用してくれた明治天皇への感謝の念で奮戦したのでした。

image by: beibaoke / Shutterstock.com

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