「朝敵」となった唯一の皇族・輪王寺能久法親王は日清戦争後なぜ台湾へ行ったのか?

Tokyo,,Japan,-,Mar,31,2016:,Tomb,Of,Shogitai,Warriors
 

前回の記事で、皇族でありながら朝敵となってしまった輪王寺宮能久法親王について紹介した『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』。今回は、時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが、その続編として彼の逆転人生について語っています。

【関連】皇族でただ一人「朝敵」の汚名を着せられた、輪王寺宮能久法親王の強い“思い”

朝敵となったただ一人の皇族、北白川宮能久親王の逆転人生(後編)

輪王寺能久法親王は粘り強く交渉します。有栖川宮も参謀たちも取り合いませんでした。側で様子を見ていた覚王院は宮への不遜な態度に深い憤りを覚えました。事態を打開しようと輪王寺宮は朝廷への直接交渉を決意します。そこで、有栖川宮に朝廷に嘆願すると伝え駿府城を辞去しようとしました。有栖川宮は強く反対します。直ちに江戸に戻るよう高圧的に命じました。無理に京へ向かおいとしても官軍に阻まれます。やむなく宮は追い返されるようにして江戸に帰りました。

失意を胸に寛永寺に戻ると、情勢は緊迫の度を高めていました。寛永寺に慶喜を守ろうとする幕臣たちが集まり、彰義隊を結成していたのです。朝廷に恭順する慶喜の意思とは裏腹に官軍と一戦を交えるべしという強硬派が勢いを得ていたのです。

宮は危機感を抱きましたが、事態は思わぬ展開になります。交渉失敗と思っていた慶喜助命、徳川存続が和宮の嘆願によって朝廷の公家たちの心を動かし、慶喜助命の声が上がってきたのです。こうした公家たちの声を西郷も無視はできず厳しい条件付きで慶喜の命は助ける考えに傾きます。

そして西郷と勝の会談によって江戸城は無血開城、慶喜は寛永寺を出て実家である水戸家へ向かいます。

やれやれとほっと安堵したのも束の間、彰義隊は寛永寺に留まったまま、解散しようとしませんでした。彼らは慶喜に代わって輪王寺宮を守るという名目を立てたのです。やがて官軍が江戸にやって来ます。官軍は勝利者の驕りで江戸の町人に高圧的な態度で接し、反感を買いました。町奉行所は機能しなくなり、江戸の治安は乱れました。

彰義隊は江戸の治安を守る大儀で江戸市中を巡回します。巡回中、官軍の雑兵たちとしばしば衝突しました。官軍への反感から町人たちは彰義隊を応援します。そんな最中、輪王寺宮が京都へ戻るという噂が流れました。たちまち、寛永寺に留まってくださいという町人たちの嘆願書が届けられます。その数は膨大で一室の天井に届く程であったそうです。公方さま不在の江戸にあって民がすがる偶像は輪王寺宮になったのです。

print
いま読まれてます

  • 「朝敵」となった唯一の皇族・輪王寺能久法親王は日清戦争後なぜ台湾へ行ったのか?
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け