例えば、仙台市の荒浜海岸は市街地から最も近い海水浴場で私も小学生の頃には慣れ親しんだ場所だが、そこには多くの遺体が打ち上げられた。救助ヘリで上空にいた消防隊員はその模様を苦悶の表情で語っていた。
当時、「荒浜海岸」の情報を東京で知った私は5日後に実際その場に立ち、津波の海水が引いた田圃で遺体の捜索を手伝い、泥だらけの遺骸のいくつかを目の当たりにする。それは、どこか現実離れしているようで、私自身もうまく言葉にならないままだ。だから、発災から対応していた職員の驚きや苦悩や戸惑いは想像をはるかに超えた、人智を凌駕する瞬間の連続だったのだと察する。
もっと大きな見方をすると、AIによる仕事の拡充が進む中で、AIに感情を持つかの問いに、「AI研究のゴッドファーザー」、トロント大のジェフリー・ヒントン名誉教授は「主観的な経験という観点」から「AIは人間と同じような感覚を持てる」と話している(3月10日日経新聞)。
この認識と被災地の自治体職員が訥々と語るそれぞれの事実とそれを伝えようとする感情には乖離があるように思えてならない。語りの中にあるそれぞれの間。そこに滲む寂しさ、悔しさ、悲しさ、切なさ、儚さ─。これらの感情を発出しながら、時には押し殺し、または違う言葉で包み込みながら、自治体職員もそして体験をした私たちはあの日を語っている。
この語りの連続性に日常があることを考えると、「感情を持つAI」と言われても、そこには表情がないから戸惑ってしまう。震災を深く考えることは、私たちの命、人を考えることにもなる。311の今日。その思いをかみしめたい。
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