洋の東西を問わず歴史に名を残す、数々の強くそしてしたたかな女性たち。そんな中から今回、時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが紹介しているのは、「イタリアの女傑」「日本の妖婦」と呼ばれた二人の女性です。早見さんは週刊で配信中の『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』で、彼女たちの世間をざわつかせたエピソードを取り上げています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:女傑と妖婦
女傑と妖婦
イタリアの女傑、カテリーナ・スフォルツァを紹介致します。
カテリーナは1463年、群雄割拠状態にあったイタリアのミラノで、領主の娘として生まれました。11歳でローマ教皇シクトゥス四世の甥、ジローラモ伯爵と結婚、夫は31歳でした。
20歳の年齢差がありましたが、二人の子供がさずかり、幸せに暮らしました。その暮らしが暗転したのは25歳の時です。
領内で反乱が起き、夫が殺されてしまったのです。カテリーナと子供たちは城外で反乱軍に捕まります。夫の家来たちは城に籠もり、反乱軍と戦い続けました。
カテリーナは反乱軍に子供を人質として預け、降伏するよう説得すると城内に戻ります。しかし、彼女は城内に入ったまま出てきません。痺れを切らした反乱軍は子供を殺すと脅しました。
すると、彼女は城館の屋上に立ち、スカートを捲り上げ、「殺せばいい、子供ならいくらでもこの○○○○からひり出してみせるわ!」と叫んだのでした。呆気に取られる反乱軍の中には、ありがたく領主夫人の○○○○を拝む不逞の輩もいたとか。
やがて、援軍が到着し、反乱は鎮圧され子供たちも無事救出されました。このエピソードはイタリア中に広まり、彼女は「イタリアの女傑(ヴィラゴ・ディタリア)」と賞賛されます。
未亡人となったイタリアの女傑は精力があり余り、次々と男を漁った挙句、7歳年下のジャコモと再婚したものの、ジャコモは領主として専横を極め、前夫同様に領民に殺されてしまいました。カテリーナは激怒し、暗殺犯一味と家族を拷問の末に殺し、亡骸を晒します。
夫二人が殺されてもカテリーナの精力は衰えず、メディチ家最高の美男、4歳下のジョバンニと三度目の結婚に至ります。一男をもうけ、今度こそ女の幸せを掴んだと思いきや、ジョバンニは31歳で死んでしまいます。その翌年、チェーザレ・ボルジアに攻められ、カテリーナは囚われの身となりました。ボルジアは心身共に女傑を征服したかったのか2日間に亘ってカテリーナを強姦したそうです。
その後、ローマの修道院に送られた10年後に病死。修道士に看取られながらの、女傑には不似合いな静かな最期だったそうです。
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