「子供ならいくらでもひり出してみせる!」なぜ“イタリアの女傑”は反乱軍を前にしてスカートを捲り上げたのか?

 

次に日本の妖婦下田歌子です。

下田歌子は明治から大正にかけて活躍した教育者、歌人で、特に女子教育の先駆者として有名です。有名であったのは、教育者とは思えない、妖婦とあだ名をつけられたスキャンダルにもよりました。歌子は立身出世のためだったら男を手玉の取る妖婦だと批難されたのです。

教育者と妖婦、相反する二つの顔を持つ下田歌子とはどんな女性だったのでしょうか。

歌子は幕末、美濃国岩村藩の藩士の娘として生まれました。5歳の時、漢詩を詠み、和歌を作る神童ぶりだったそうです。明治になって、父と共に東京に出、17歳の時、西郷隆盛に認められて宮中の女官になります。

宮中では明治の紫式部と称えられる才媛ぶりを発揮します。実は歌子は本名ではなく、彼女の才能を愛でた明治天皇の皇后美子から授けられたのでした。

ところが、女官たちから激しいいじめに遭い、7年で剣客下田猛雄との結婚を理由に宮中を去りました。この時、歌子が宮中を辞したのは、品行が悪く、問題視されたという噂が広がりました。

歌子は宮中から追い出された屈辱をバネとし、夫猛雄が病に臥すと、療養費を稼ぐため、私塾を開きます。明治の元勲の妻女たちを教育し、政界の大物たちと繋がりができます。

伊藤博文がパトロンだと噂され、新興宗教家で日本のラスプーチンと言われた飯野吉三郎と恋仲になったと評判されました。

やがて、社会主義者幸徳秋水が運営する平民新聞紙上で、「妖婦下田歌子」と題された実名小説が連載されます。連載内容はスキャンダラスで、彼女は伊藤博文に強姦されて性と野心に目覚め、政界や学界の有力者を次々に誘惑、彼らを踏み台に出世していく様が描かれました。

また、女の徳を語った歌子の演説を引き合いに出し、妖婦が語る資格はないと弾劾しました。この連載が掲載されたのは彼女が女子学習院院長であった頃、彼女は乃木稀典によって辞職させられました。それでも、実践女子学校、順心女学校を創設するなど女子教育に人生を捧げました。

下田歌子、果たして女子の鑑だったのでしょうか、それとも男を手玉に取る妖婦だったのでしょうか。

image by: Shutterstock.com

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