この曲は3部構成で「救世主来臨の預言から、イエスの生誕」「イエスの生涯、死と復活」の2つの世界を描いている。
台本作家のイギリス人、ジェネンズによる詩は結果的にヘンデルの故郷であるドイツの宗教改革からなる、ルター派が大切にする「説教」に通じることになった。
それがイザヤ書第53章を持ってキリストの受難を想起すること(音楽評論家・澤谷夏樹氏)である。
「たしかに彼は私達の痛みを負い、私達の悲しみを担った!私達の背きのために彼が傷つき、私達の咎のために彼が打たれた。彼の受けた懲らしめによって私達は平安を与えられた」。
この受難と安堵の関係性ははたしてよいのだろうか。
歌詞にはまたこうもある。
「なぜ国々はともに怒り立ち、なぜ人々は空しいことを思い描くのか?」。
まさに現代の空しい戦争を何世紀も前に示していたのだ。
私にとって今年の12月はクリスマスの連続だった。
東京都国分寺市の障がい者向けの学びの場である「くぬぎ学級」でクリスマス音楽会を1日に主催し、毎週火曜日の重度障がい者向けの音楽の講義では毎回、登壇するミュージシャンがクリスマスの雰囲気を演出し演奏した。
運営する就労継続支援B型事業所のクリスマス会ではゲームを楽しみ、大学でのクリスマス礼拝とレセプション、大学のゼミ学生とのクリスマス会、そしてゼミ生と自宅にいる重症心身障がい者とオンラインでの対話をきっかけにしてクリスマスカードの交換も行った。
これら喜びを分かち合う場としてのクリスマスは幸せな時間ほかならない。
しかし、この幸せはイザヤ書が示す受難があったからだと考えると、やはり感謝からクリスマスは成り立ち、私達が共に生きているのだと実感する。
メサイアの歌詞をじっくり噛み、そして世界の平和に向けて「ハレルヤ」と叫びたい。
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