同時代性を失う読者たち
雑誌の休刊は、単なる商品の終了ではない。 それは、その雑誌を読んでいた読者共同体、投稿欄、連載作家、編集部、誌面の空気がまるごとひとつ消滅することを意味するのだ。 雑誌文化の重要な特徴は「同時代性」だった。 同じ号を、同じ時期に、多くの人が読む。 翌日、学校や職場で話題にする。 漫画雑誌なら、連載の展開をみんなで語る。
ファッション誌なら、次の季節の服装を共有する。 この「同じ号を読む」という経験は、ネット時代には廃れた。 現在は、SNSのタイムラインも検索結果も動画推薦も人によって違う。 同じ時代に生きていても、見ている情報空間はかなり異なる。
だからこそ、いま20代の若者が、自分が生まれてもいなかった時代の「昭和歌謡」をネットで見てドハマリするという、かつてはなかったような現象も普通に起きていたりする。 よしりんバンドをやっているわしとしては、若い世代が昭和歌謡に興味を持つというのは歓迎すべきことではある。
だがその一方で、雑誌文化の終わりとは、共通の誌面を通じて時代感覚を共有する文化の終わりでもあり、「個人」がさらにバラバラの砂粒の「個」になっていくということも危惧せざるを得ないのである。
雑誌文化では、人は「読者」だった。 読者とはある編集方針を信頼し、定期的に誌面を読み、時には投稿し、時には反発しながらも、その雑誌の世界に参加する存在である。 しかし現在、人は「ユーザー」「フォロワー」「視聴者」「サブスク会員」になった。 この違いは大きい。 ユーザーは、自分の欲しい情報だけを検索する。
フォロワーは、個人やブランドを追う。 視聴者は、動画や配信を断片的に見る。
だが読者は、一冊を通して編集者の意図に付き合っていた。
雑誌文化は、読者にある程度の「受け身」を要求した。
自分が予想していなかった記事、知らなかった作家、興味のなかった連載にも偶然出会う。
そこに編集された紙面の面白さがあった。 ネットにも偶然性は残っているが、多くはアルゴリズムによって最適化された「偶然」であり、雑誌の偶然性とは根本的に性質が違う。
漫画も現在では電子コミック、漫画アプリ、Web連載、SNS発の漫画、単話配信が広がり、作品単位で読まれる傾向が強まっているため、漫画雑誌で偶然知らない作品に出合うということは減った。それと共に、新人作家が雑誌を通じて育つというモデルも成立しなくなってきた。
雑誌は長らく読者からの販売収入だけでなく、広告収入に支えられていた。 特にファッション誌、女性誌、情報誌、ライフスタイル誌は、広告と誌面が密接に結びついていたのだが、広告費の中心はインターネットへと移り、この広告モデルも崩壊した。 しかも雑誌文化は内容だけで成立していたわけではなく、書店、駅売店、コンビニ、取次、印刷、配送という物理的インフラに支えられていた。 だが、この日本が誇る流通網も縮小の一途をたどっている。
雑誌文化の終焉は、決して出版社だけの問題には留まらないのである。 「雑誌文化の終わり」とは、雑誌という形式の消滅を意味するのではない。 終わったのは「雑誌が流行を作る時代」「雑誌が新人を発掘する中心だった時代」「雑誌広告が強力な収益源だった時代」「書店・駅売店・コンビニに雑誌が大量に並ぶ時代」「読者が同じ号を同じ時期に読む時代」「編集部が社会に対して大きな文脈を提示する時代」「雑誌を読めば『いま』がわかる時代」である。
つまり「雑誌が社会の共通言語だった時代が終わった」ということなのである。
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