台湾が親日な理由は彼らにあった。台湾の発展に尽くした日本人列伝

 

教育に殉じた六氏先生

公衆衛生、治水、産業振興と並んで、重視されたのが、教育である。台湾割譲が決まった明治28年当時、文部省の学部長心得だった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先すべきと具申し、自ら学務部の長となり、7人の教師と共に、台北の北方に芝山巌学堂を開いた。

当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続けており、台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていた。

それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育に打ち込んだ

事件は翌明治29年元旦、伊沢の一時帰国中に起こった。叛乱勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残っていた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。

しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示して6人の先生たち意に介さなかった。台北での拝賀式のため、山を降りた時、6人は約100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人は教師らしく、諄々と教育の意義を説き、一時は説得できるかに思われたが、彼らの一部は聞き入れずに槍を持って襲いかかった。6人はやむなく白兵戦で防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨殺されてしまった

命をかけて教育に当たる」という「六氏先生芝山巌精神」は、その後、長く台湾教育の指針とされた。昭和5年には芝山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々が、昭和8年までに330人祀られた。そのうち、台湾人教育者は24人を数えた。

芝山巌学堂が開かれて満100年にあたる平成7年、後身である士林国民小学(伊沢修二を初代校長とする)の卒業生有志は、六氏先生の墓を建て直し、日本からも遺族、関係者約50人が出席して、「開校100周年記念祝賀会」が盛大に開かれた。

芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古跡・芝山巌」を次のように結んでいる。

「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し上げます。合掌。

台湾の神様になった森川巡査

森川清治郎は明治30年に、台湾に渡り、南西部の台南州(今の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務した。森川巡査は、村内の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、手弁当で、子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えた。また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、薬や医者の手配まで世話をした。

ある年、総督府は漁業税を制定した。しかし貧しい村のこと、なんとか税の軽減をお願いできないかと村民は一致して、森川巡査に嘆願した。巡査は「納税は日本においても義務であり、何とも仕方がない。しかし生活が極めて苦しい実情を見ると忍びない。税金の軽減については、その意を上司に伝える」と約束した。

そして税の減免を支庁長に嘆願したが、逆に森川巡査が村民を扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまう。村民のために尽力してきた森田巡査にとって、この懲戒は無念やる方なかっただろう。自ら村田銃の引き金を引いて自決した。銃声を聞いて駆けつけた村民たちは、変わり果てた巡査の姿を見て、嘆き悲しみ、村の共同墓地に懇ろに弔った。

それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行した時、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生ものに注意せよ」と告げた。村民にその注意を守らせると、伝染病はおさまった。

村民たちは、自分たちの親や祖父母が一方ならぬ世話になった森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていると感謝し、巡査の制服制帽の姿を木像で作り、義愛公と呼んで祀った。この「日本人の神様」は、今でも「観音様、媽祖様、義愛公様」と、人々の信仰を集めているという。

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