誤解された「尊皇攘夷」。日本を救った吉田松陰が遺したもの

jog20170310
 

志士を弾圧する老中・間部詮勝の暗殺を計画したことで、わずか数え30歳で死刑となった吉田松陰。しかし、その遺志は松下村塾の門下生に受け継がれ、彼らは日本を近代国家たらしめました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、死を前にした吉田松陰が残した思いを振り返りながら、「尊皇攘夷」の意味について今一度考えます。

吉田松陰の「留魂」

安政6(1859)年、志士を弾圧していた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃を計画した事で、吉田松陰は10月27日に死罪を申し渡された。その時に立ち会った長州藩士・小幡高政は次のような談話を残している。

すぐに死罪を申し渡す文書の読み聞かせがあり、そのあと役人が松陰に、「立ちませい!」と告げます。すると、松陰は立ち上がり、私の方を向いて、ほほ笑みながら一礼し、ふたたび潜戸から出て行ったのです。

 

すると……、その直後、朗々と漢詩を吟ずる声が聞こえました。それは、「吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠悠たり天地の事。鑑照は明神にあり」という漢詩です。

 

その時、まだ幕府の役人たちは、席に座っていましたが、厳粛な顔つきで襟を正して聞いていました。私は、まるで胸をえぐられるような思いでした。護送の役人たちも、松陰が吟ずるのを止めることも忘れて、それに聞き入っていました。

 

しかし、漢詩の吟詠が終わると、役人たちは、われに返り、あわてて松陰を駕籠に入らせ、急いで伝馬町の獄に向かったのです。

その後、処刑場でのふるまいに関しても、1人の幕府の役人は「みな感動して泣いていました」という談話を残している。こうして吉田松陰は、数え年30歳で、生涯を閉じた。

「私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます」

この前日26日の夕刻に書き終えたのが、自分の門人たちにあてた遺言書とも言うべき『留魂録(りゅうこんろく)』だった。

そこでは、幕府の役人の取り調べの状況を綴りながら、「私は昨年(安政5年)から、心のありようが、さまざまに変化してきました」と、心の揺れ動く様を正直に吐露している。そして、その後、死を前にした心境を次のように語った。

今、私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます。それは、春・夏・秋・冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです。

 

…稲は、春に種をまき、夏に稲を植え、秋に刈り取り、冬には収穫を蓄えます。…

 

私は今、30歳です。何一つ成功させることができないまま、30歳で死んでいきます。人から見れば、それは、たとえば稲が、稲穂が出る前に死んだり、稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに「惜しい」ことでしょう。

 

しかし私自身、私の人生は、これはこれで一つの「収穫の時」を迎えたのではないか、と思っています。どうして、その「収穫の時」を、悲しむ必要があるでしょう。

print
いま読まれてます

  • 誤解された「尊皇攘夷」。日本を救った吉田松陰が遺したもの
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け