しかし、母方の祖父の場合は大きく異なる。まぁ、祖父が地元の地権者ということもあったのかもしれないが、戒名代には莫大な金額が提示された。詳細は割愛したいが、まぁ、父の時と比べると3~4倍、つまり、数百万円単位の戒名代が請求されてきた。しかも、この時は口頭で提示してきた金額で無論、祖父のためと思って、その時は何も言わずに収めさせて頂いたが、正直、この差額が一体何を表すのかはまったく意味が分からない。ちなみに、そこの寺院は曹洞宗となる。
そんな経験してしまうと、まぁ、「仏教離れも進むよなぁ~」と思ってしまう。これがほんの数万円程度の誤差なら誰も何も感じないが、さすがに数百万円単位の話となると訳が違う。その上でこうした価格を明らかにしようとする動きに対して反発をされると、何か不都合な話でもあるのではないかという勘ぐりたくもなるものだ。
実際、ネットの掲示板などをみても、こうした傾向を反映してか、戒名をつけるという習慣さえ終わった方がいいといった過激な主張まで見られる。もし、そうなったら元も子もないだろう。
気持ちはあくまで気持ちの上に発生する。もし、それを原則とするならば、気持ちは気持ちとして、別の形で受けた方が何だかすっきりするようにも思える。気持ちと言いながらも、それなりの対価の上に発生するものであるから、却って、その裁量を厳格に求めることにもつながってしまい、それが不信感を招く一因になっているようにも思える。ましてや金額が金額なだけにその理解度はさらに求められるといっていいだろう。この点は時代的な価値観に負う部分も大きいとは言える。
最近、伝統文化の中でも同じような声を聞く。100円ショップのような激安ショップでも似たようなものが買えてしまう時代だからこそ、高価なものにはそれなりの理由や価値が求められてしまう。ダイヤモンドのような物質的な希少性に頼るわけでもない、職人の腕の善し悪しという多少の感性を伴う価値だからこそ、その購買には相応の目と知識が求められるのだ。
日本の仏教は独自の発展を遂げてきたため、もはや外来宗教という感覚はなく、そこは神道と同じく日本固有の精神性を強く示すものだと私自身も思っている。それだからこそ、そうした商用的価値観に翻弄されるのは至極残念な気がしてならない。
今では「お墓に入らず、散骨でいい」、「家族と同じお墓には入りたくない」、「葬式はあげなくていい」。そういった声が日に日に強くなっている。時代的価値観の変遷と言われればそれまでだが、この記事が指摘している通り、仏教に対する低下率は同じく無宗教支持層が拡大するアメリカと比べても極めて大きいという。であればこそ、なおさら仏教界はこの時代における自らの在り方を真摯に示していく必要があるのではないかと思っている。
最近、お坊さんによるバラエティ番組への露出が高まっているが、真摯に人としての在り方、生き方をもっと示してもらいたいと願っている。少なくとも織田無道氏のように煩悩の固まりのような御仁にはご退場頂きたいものである。
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『東條英利の「日本の見方」』より一部抜粋
著者/東條英利
いわゆるA級戦犯とされる東條英機は私の曽祖父でありますが、その直系の長男のみが、この「英」の字を継いでおります。私もその継承者として、時にはこの名を疎ましく思ったこともありましたが、戦後70年を迎える今こそ、この名前がもたらした様々な事実や経験、考えを語ってみたいと思っております。
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