真田三代
真田昌幸、信繁(幸村)、大助の三代の人形です。六連銭(六文銭)の幕も目をひきます。
真田昌幸
武田二十四将のひとり。父、幸隆のころから武田信玄に仕えており、初陣はあの第四次川中島合戦。徳川家康を敗走させた三方ヶ原の戦いなど多くの戦いに参加して武名を馳せました。武田氏滅亡後は織田信長に仕えましたが、本能寺の変で信長が没したのちは、ふたたび独立し、最後は関ヶ原で西軍についたために改易させられました。嫡子の信之は東軍についたため、真田一族は江戸時代も存続しました。
真田信繁(幸村)
真田昌幸の次男。幸村の名で知られます。大坂夏の陣で、徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めたといわれる名将。
真田大助
真田信繁(幸村)の子。幸昌とも。大坂夏の陣で豊臣秀頼の自害を見届け、殉死したといわれています。
真田石
真田昌幸(信繁(幸村)、信幸(信之)の父)が、上田城築城の際に城の北にある太郎山から掘り出した石で、その時に「真田石」と名付けられました。岩質は緑色凝灰岩。真田信之が松代に移封となった際に持ち出そうとしましたが、全く動かなかったということです。信之も、そんなに動きたくなければ好きにするがよいと、持ち出しを諦めたということです。
上田城平和の鐘 鐘楼
上田城の城下町にあったといわれている時を告げる鐘は、昭和9年に上田城内へ移設されました。しかし、昭和18年には供出に出され、長く鐘がない状態でした。
上田城平和の鐘
昭和48年(1973)に、上田市自治会連合会らの復元運動により再び鐘楼に鐘が設置されました。「この鐘の鳴り響くかぎり再び悲惨な事の起らないよう十万市民の平和の願いがこの鐘に込められている」と書かれてあります。