10円玉でおなじみ「平等院鳳凰堂」の落書きでわかった庶民たちの苦悩

 

宇治平等院鳳凰堂

平等院は、末法が始まるギリギリの釈迦入滅2,000年目にあたる1052年関白藤原頼通によって創建されました。藤原頼通と言えば「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」の歌で有名な藤原道長の長男ですよね(この世は自分のためにあるようなものだ。満月の欠けたことがないように)。満月の欠けたことがないようにとは、もう自分の思うようにならないことは一つもないということです。いかにも栄華を極めているといった勝者の歌ですね。

平等院は京の都から見て宇治川の向こう側に位置しています。当時は宇治川を三途の川に見立てその西にある西方浄土にたとえられた場所だったということです。西は日が沈む方角なので死者が住む場所、すなわち浄土がある場所と考えられていたのです。

古来から貴族が死を迎えるまで晩年を心安らかに過ごす場所としてもこの地が選ばれてきました。かつては、陽成天皇の隠御所があり、宇多天皇や朱雀天皇もこの地を晩年の御所としていた場所です。

現在の平等院の地は、源氏物語のモデルとなった源融(みなもとのとおる・嵯峨天皇の皇子)の宇治院があった場所とされています。この地は999年に藤原時代の栄華を築いた藤原道長が手に入れ、息子の頼通によって平等院が建てられたのです(ちなみに源融はこの地の他に現在の嵯峨清凉寺付近と渉成園付近にも邸宅を構えていたそうです)。頼道がこの地にこだわったのは、近郊の小幡(こはた)の地が藤原一門の埋葬地だったことに関係しているとも伝えられています。

創建当時は金堂、講堂、五重塔など多数の建築が立ち並ぶ大寺院でした。しかし、この辺りは交通の要衝だったため京都の南の防衛線でもあり、合戦や戦火が絶えない場所でした。そのため往時を忍ばせるものは、鳳凰堂と正面の灯籠、前庭の阿字池(あじのいけ)しか残っていません。

鳳凰堂(阿弥陀堂)には阿弥陀如来像が祀られていて、当時最高の腕をもつ仏師定朝(じょうちょう)の作です。日本の彫刻、仏師の歴史はこの人から始まるといっても過言ではありません。

阿弥陀如来像は極楽浄土の主人で亡くなった人の魂を救いとるとされている仏様です。その姿は亡くなった人をこの世に迎えに来た来迎の瞬間を表しています。

内部の壁の側面には阿弥陀如来像に寄り添うように52体の雲中供養菩薩の木像が舞っています。現在は何体かが残され、それ以外は隣接する鳳翔館という展示館でも見ることが出来ます。雲の上に乗る菩薩様の彫刻は一体ずつ違う楽器を演奏している姿をかたどっています。何体かは舞踊を踊っている姿です。これらの菩薩像は阿弥陀像と一緒に臨終を迎えた人のすぐ側に来迎し極楽の世が華やかで楽しい場所だということを表現しています。阿弥陀様はすでにこのころから救いを求める人達の思いを深く受け止めてきたのです。

堂内の天井には、螺鈿と銀箔を張った円鏡が施されています。本尊は東向きに建てられています。そのため正面の扉を開くと、池の水に反射した朝日の光が堂内天井の円鏡に集められるように設計されています。そしてその光が本尊をスポットライトのように照らす計らいが施されています。

宇治川を挟んで向かい側の仏徳山の麓には世界文化遺産で国宝の宇治神社宇治上神社が鎮座しています。当時は平等院阿弥陀堂から宇治上神社の正面を拝むことが出来たようです。

6月には平等院から見て仏徳山に夏至の日の太陽が昇ります。一年で最も勢いのある夏至の太陽の光が日の出の瞬間に、堂内の阿弥陀如来像を黄金色に浮かび上がらせるよう計算されて建てられています。

また、平等院から見て、冬至の日の日没の方角には平等院の鎮守社である県(あがた)神社が位置しています。このように昔の重要な建築物は太陽や月などの通り道などを意識して設計されているものが少なくありません。日の差し方や太陽の通り道などで農耕作業の開始や収穫の目途などが分かるようにしていたのです。

昔の人は物もなく便利な世の中ではなかったのでものすごく頭を使っていたことがよく分かります。歴史を勉強していると昔の人の知恵がいかに豊かだったかということにとても驚かされます。

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