中国の「南シナ海活動は2000年の歴史」という真っ赤なウソを検証

 

それはともかく、この委員会の主張に従って、翌36年に、熱烈な愛国主義者である地理学会の大御所=白眉初が「自国がいかに多くの領土を奪われたか国民を教育しよう」という目的で、自ら編纂した『中国建設地図』に、あの悪名高きU字型のライン、すなわち「9段線」の原型となる「11段線を描き込んだのである。

しかし中国側のこの作業は、1937年に盧溝橋事件を機に日本が大陸に侵略を開始したために、それどころではなくなって中断された。他方、日本は、33年にフランスが南沙諸島を占領し、38年には商船を派遣して人員資材を上陸し施設の建設を始めたので、これを重大視して同年12月に「新南諸島の所属に関する件」を閣議決定し、南沙の主だった13の島に日本語で命名してそれら全体を「新南群島と名付け台湾総督府の管轄下に置くと宣言した。さらに太平洋戦争が始まって「フィリピンの米軍が1942年5月に降伏すると、南シナ海沿岸のほぼ全域、すなわち台湾からシンガポールまで、ぐるりと回ってまた台湾までが、数千年の歴史上初めてただ一国の手に落ちることになった。南シナ海は『日本の湖』となり、この状態は1945年1月まで続く」(ヘイトン、P.89)。

南沙のことは日本とは無関係の遠い話と思っている向きもあるかと思うが、そうではなく、東南アジアの帝国主義間の陣取り合戦には日本にも一端の責任があることなのである。

第3に、この戦前日本の権益を戦後どう処理するかについて、連合国の方針がいい加減だったために、余計に問題をこじらせてしまった。

日本はカイロ宣言・ポツダム宣言を受諾したことで、満州台湾及び澎湖島などを中華民国に返還することと併せて、1914年の第1次世界大戦の開始以後に奪取・占領した太平洋の一切の島嶼を剥奪されることを受け入れ、その旨が1951年のサンフランシスコ講和条約第2条(b)では「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」こと、(f)で「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」こととして明記された。そして翌52年の日華平和条約でも、サ条約第2条のそれらの条項が「承認された」ことが盛り込まれる。

ところがそこに至る過程では、連合国のこの問題の処理方針はフラフラし通しで、「計画されている国際機関」つまりこれから創設される国連の下に置いて国際的な委員会の管理に委ねるとか、中国に帰属させるとか、それでは南沙の領有を主張してきたフランスが納得しないから中仏の2国間協定で決めるとか、いろいろな案が出た挙げ句、結局は、日本さえ排除すれば戦略的にも経済的にもまったく重要性を持たない海域なのだから、日本が放棄した後の帰属先については言及しないでおこうということに落ち着く。

これに先立って、1946年7月に米占領下から独立したフィリピンは、早速、キリノ副大統領がスプラトリー諸島を同国の「国防範囲」に含めると宣言してフランスと紛争になりつつあった。それに対して中華民国政府は1947年5月に、西沙諸島をフランスから奪還する動議を立法院で可決すると共に、12月には日本の呼称である新南群島を南沙諸島と改め、個々の島嶼にもすべて中国語名を付けた「南海諸島位置図」を刊行し、その時に白眉初博士の「11段線」を復活させて描き込んで、細かいことはともかく、その内側にある島嶼すべては民国が領有すると主張した。

しかしその時、蒋介石軍は毛沢東軍との内戦の真っ盛りで、その主張を実現するための周辺外交などやっている暇はなく、やがて49年10月には毛が中華人民共和国の創立を宣言、蒋は重慶を命からがら脱出して12月には台湾に逃げな込まなければならなかった。北京政府は当然にも、民国のこの主張と11段線を継承した。しかし当時、対仏独立戦争を戦っていた同志ベトナムへの配慮から、53年にトンキン湾のハイフォン沿岸と海南島との中間線にプロットされていた2つの点線を消した。それで今日の9段線になったのである。

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