中国の「南シナ海活動は2000年の歴史」という真っ赤なウソを検証

 

「2,000年以上の活動の歴史」という嘘

7月13日の中国政府の声明は、「南シナ海での中国人の活動にはすでに2,000年以上の歴史がある。中国は南シナ海諸島及び関係海域を最も早く発見、命名、開発、利用し、その諸島・海域に対して最も早くかつ持続的、平和的、有効に主権と管轄を行使し、南シナ海における領土主権及び権益を確立した」と言っているが、これはもちろん嘘である

元BBCのジャーナリストで今は英王立国際問題研究所にいるビル・ヘイトンの力作『南シナ海/アジアの覇権をめぐる闘争史』(河出書房新社、15年12月刊)が詳しく述べているように、2,000年どころか数千年数万年前からこの海域を自由に行き交って漁労や交易や海賊行為で暮らしを立ててきたのは、フィリピン大学の考古学者=ウィルヘルム・ソルハイムが「ヌサンタオ」(南の島の人々)と名付けたオーストロネシア語系のさまざまな民族や部族の海洋民である。彼らの子孫は今日でも、中国南部の蛋民(たんみん)、ベトナムのダン族、フィリピンで「海のジプシー」と呼ばれるバジャオ族、マレーシアのバジャウ族、インドネシアのオラン・ラウトなどとして海上や沿岸部で何千年何万年前と基本的に同じ暮らし方をしている。

1950年代に米人類学者がフィリピンのミンダナオ島で出会った海民サマ族の女性は、生まれてから1度も陸地に上がったことがなく、陸に上がると悪霊に襲われると信じていた。そのように、彼らは陸地とは無縁どころか陸の国家から排除された人々で、「つまり、本当に南シナ海の島々を発見したのは、今日認識されるような民族的なアイデンティティを持たず、国家のようなものには何の愛着も持たなかったであろう人々なのだ。政治的単位が陸上で発展していくかたわらで、ヌサンタオはその手の届かないところで生きようとしただろう」と、ヘイトンは書いている(P.25~27)。

1世紀頃から4世紀まで東南アジアに覇を唱えたのは、メコンデルタを中心に今のカンボジアからベトナム南部を抑えた「扶南(ふなん)」(と7世紀の中国の史書「梁書」で呼ばれている国)で、ヌサンタオが拓いたローマからインド、中国までを結ぶ海上交易路を支配して、中国の絹や東南アジアのスパイスをローマに、アラビアの乳香や没薬(もつやく)やインドのガラス工芸品などを中国に運んで富を蓄えた。4世紀になると、扶南の従属国の1つだった「チャンラ(真臘=しんろう)」が台頭して今のベトナム中部沿岸のその諸港が栄えた。

ダナンの南西にある世界文化遺産の「ミーソン遺跡」はチャンラ王国の聖域で、数世紀後のアンコールワット寺院に通じるヒンドゥー様式の原型を示しており、要するにこの辺りまでは長くインド文化圏だったのである。

扶南も真臘も、東西交易路を独占していたわけではなく、それ以外にもマレー人、ジャワのタルマ国やスマトラのシュリーヴィジャヤ国などが活躍し、それぞれに中国の歴代王朝と朝貢関係を結んでいたが、それは交易の便宜上のことで中国との主従関係はなかった。これらの南シナ海の諸国・首長らが強い政治的・宗教的繋がりを持っていたのはむしろインドで、宗教は最初はヒンドゥー教、後に仏教を導入し、サンスクリット語を公用語として用いた。

唐に至るまでの中国の内陸王朝にとって、海は辺境もしくは脅威の源であり、中国人が自船で外洋に乗り出すことを禁止していた。貿易は専ら受け身で、中国南部の諸港にやってくるヌサンタオやその子孫たちとの国家管理の下でのオフショア取引に限られていた。唐が崩壊して十国時代になり、福州を中心に「ビン(門構えに虫)」が興ると、陸側を閉ざされたこの小国は海側に活路を求め、10世紀を通じて急速に海洋貿易国家になっていく。次の統一王朝の宋はそれをさらに拡大して、積極的に中国商船に許可を与えて交易を促し、銅銭の輸出を解禁し、マレー船を真似た外洋船の建造法も身につけた。11世紀末には、中国船はどこの港からも外国に向けて出航してよいことになり、東南アジアのあちこちの港町に中国人の商人や船員が溢れ、チャイナタウンを作るようになった(ヘイトン、P.30~37)。

つまり、中国船が南シナ海を行き交うようになったのは、せいぜいが1,000年前からにすぎず、それ以前の「数千年数万年」を通じてこの海は誰にも一元的に支配されることのない海の民のネットワーク共同体の自由な海だった。従って中国政府が言う「2,000年前からの歴史的権利」とかいう定義不明の主張には何の根拠もない

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