東京に青い空を取り戻す
その後3人目の知事として美濃部亮吉氏が1971年に就任。学者だが、いってみれば東京のさまざまな矛盾が出てきた時代、特に杉並公害などの「公害問題」を問題視し「ストップ・ザ成長」を掲げ、成長路線を少しゆるやかにし、「東京に青い空を取り戻そう」と青いバッジをつけて選挙活動を実施。実績としては「老人福祉手当」「老人医療費無料」といった「福祉政策」の充実、「高齢住民の都営交通無料化」などさまざまな無料化政策を実施し非常に人気があった。しかしながら、この施策により財政は赤字となる問題を引き起こした。
これは東氏の時代にインフラ整備を実施してきたツケが出て、それをなんとか修正しようという時代だったのだろう。
今、中国は公害問題で大変だが、その景色は当時の東京を思い起こさせるようであり、それを「青い空を見えるようにした」ということは、それなりに大きな意味を持っていた。
アピール選挙戦の兆しが見えるも、都政は盤石
無料化政策は住民にとっては非常によい話だが、財政的には苦しくなった。その中で登場したのが鈴木俊一氏。先に紹介したが、東氏の都知事時代に副知事を務めた。実績としては「財政再建」と「新都市開発」を実施。「新都市開発」とは新宿に都庁を作ったり、臨海副都心を作るなど、非常に大きな意味を持ったように思う。「財政再建」においては、職員定数削減、退職金の引き下げ、福祉政策の見直しなど「行財政会計」を盛んに実施した。そういう意味では、それなりの役割を果たしたように思う。
鈴木氏は当時80歳だったが、お元気で選挙戦時に「前屈」をして身体の柔軟性をアピールした。その時の対抗馬は元NHKキャスターの磯村尚徳氏。磯村氏はフランス語に長けた方で、フランス派ともいわれていたが、選挙戦では庶民派をアピールするために銭湯に行ったが、ある意味では結局そのアピールで失敗し選挙に敗れた。
鈴木氏は実務派の行政を実施。自民党の分裂選挙だったが、それによって効果を上げたといってもよい。都知事選が変質したのは、鈴木氏の後からである。